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アタリの未来予測 [スズムシ日記]

ジャック・アタリが朝日新聞に未来予測といってインタビューに応えている。朝日にはよく登場する。ご贔屓のようだ。右からは朝日がバッシングをうけているのにね。フレフレだ!めげずにがんばれってば。スズムシ爺

長文だから連載でお送りします。

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2030年、未来予想図

 

 20世紀以降、英米、米ソ、米中と2大国の関係が世界情勢を左右してきた。一方で市場のグローバル化に伴い、国家の力は弱くなってきている。保護主義が台頭し、北朝鮮の非核化が焦点となる中、日本や欧州は両大国とどうかかわるべきか。数々の予言を的中させてきたジャック・アタリさんに、2030年の未来予想図を聞いた。

 ――数々の「未来」を予測してきました。

 「06年に米国の住宅向け融資『サブプライムローン』の危険性を指摘し、翌年、実際に世界金融危機が起きたことが、よく引き合いに出されます。07年6月にiPhone(アイフォーン)が発売される前に、世界を自由に横断する『ノマド』が持つ情報発信機器として『オブジェ・ノマド』の普及を予測し、スマートフォンの大衆化を言い当てたとも言われました」

 ――最近出版された「新世界秩序」(作品社刊)では、30年の世界像を描いています。

 「世界のGDP総額は現在の2倍になり、地球上の総人口は15%増え、85億人に達します。うち70億人が携帯電話を持っているでしょう。大国はライバルを圧倒するのに手いっぱいで、自国の利益のためだけに立ち回り、市場のグローバル化が国家をのみ込みます。国境を越えた不正行為が増え、麻薬や売春などの犯罪経済が世界のGDPの15%を超えることでしょう。それは破局に直面し、無政府化とカオス化が進んだ世界です」

 ――なぜ、そんな状況に。

 「最も憂慮すべきは、最近の米国の関税攻勢に見られるような保護主義です。現政権は極端に走りがちなのが気がかりです。例えば、赤字の発生源だからと日本車の輸入自体を禁じるような……保護主義が行きすぎると、世界経済は破局へ至ります。中国は歯車が破局へと自転しないよう、賢明な対応をしていると思います。日本と欧州は、共通の危機にさらされていると指摘しておきます」

 ――どんな危機ですか。

 「米中の2大国に加え、ロシアやインドなど近未来の大国は、友好国にすら容赦しなくなります。日本と欧州は、資本や高い技術を持ちながらも、守勢に立たされがちです。企業買収や技術移転などを通じ、悪い表現ですが『生き血を吸われる』危険がある。それを防ぐには、以前よりも多様化した同盟関係を結ぶ必要があります」

 「現代の市場が『ミー・ファースト』(私が一番)の原理で動いていることに、この傾向は起因します。市場は、本来なら『お客様が一番』のはずですが、実態は逆になっている。競争や宣伝で『私が一番』を唱えるありようは、ポピュリズムの原理と通底します。地球規模で利己主義と利他主義、つまり『自分の幸せのために』と『他人の幸せのために』という価値観がせめぎ合っています」

 ――英国が欧州連合(EU)からの離脱を決めた際、「一国なら良くなる。まずは自国から」「昔はよかった」という考え方は短絡的で誤っていると批判しました。

 「ミー・ファーストにも通じる考えですが、根底には『未来を恐れる』心情があります。米国も日本も同じ傾向にあります。誰でも昔は若かったし、時間もあった。でも懐古的で内向きな心情に浸る傾向は、望ましくありません」

つづく


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あるきだす言葉たち [スズムシ日記]

『あるきだす言葉たち』は詩や短歌の新人を紹介する新聞連載もの。近頃あまりピントこなかったのだが、森水陽一郎はいいかも。と思った。76年姫路生まれ。第一詩集『九月十九日』(ふらんす堂)で小野十三郎賞を受賞している。

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昭和

常磐の森の産湯だまりが干上がったと

聞きつけた夕餉どきには、すでに

泥さぐりの熊手を手にした古老たちが

祭りじめのふんどし一丁で、黙々と

屍の匂いに集うシデムシの働きぶりで

二十人ばかり、森のすり鉢に身を沈め

ひざまで積年の、産湯に泥にうずもれて

ぬたりぬた、底へ、底へと身を惹かれ

 

赤目をぎらつかせた救急車と人だかりが

森のとば口に押し寄せ、入れろ入れろと

足止めの青年団ともみ合いになるが

「帰りを待つ!散れ!」と鉄壁となり

 

やがて一人、また一人と、夜霧を縫い

藪張りの獣道を、泥かぶりのしおれ顔で

ぬらりと抜け出てくるが、赤色の稲光を

浴びるその姿は、残らず失名の泥びとで

その胸に抱きかかえるは、人によっては

ぐずぐずに煮崩れた、匂い立つ軍服の褜

であり、あるいは錆朽ちに根を絶たれた

赤子返りの銃剣と栄え映り、それはまた

生後七十三歳の、昭和の忘れ形見

盲目の、不帰の落とし子でもあるはずで

 

スズムシ:昭和も過去になりつつある。生後七十三歳とはまさに僕の年。敗戦の8月から1か月後に生まれた。常磐でなく白河で。そこに父はなく。母一人で疎開しての産み月。乳は出ず、粥を薄めて乳の代わりをすすったとか。昭和も過去になる。十年生まれの我が師匠も亡くなった。昭和が遠くなる。


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胸の中の鈍いおもり 村上春樹 終わり [スズムシ日記]

木村判決 一筋の光明


 


 林泰男の裁判に関して、もうひとつ印象に残っているのは、担当裁判官であった木村烈氏がとても公正に、丁寧に審理を運営しておられたことだ。最初から「実行犯は死刑、運転手役は無期」というガイドラインが暗黙のうちに定められている状況で(林郁夫=受刑者・無期懲役確定=という例外はあったものの)、審理を進めていくのはいろんな困難が伴ったと思うのだが、傍聴しながら「この人になら死刑判決を出されも、仕方ないと諦められるのではないか」と感じてしまうことさえあった。


 正直に申し上げて、地裁にあっても高裁にあっても、唖然とさせられたり、鼻白んだりする光景がときとして見受けられた。弁護士にしても検事にしても裁判官にしても、「この人は世間的常識がいささか欠落しているのではないか」と驚かされるような人物を見かけることもあった。「こんな裁判にかけられて裁かれるのなら、罪なんて絶対におかせない」と妙に実感もした。しかし林泰男の裁判における木村裁判長の判断に関する限り、納得できない箇所はほとんど見受けられなかった。判決文も要を得て、静謐な人の情に溢れたものだった。


 「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であったと言える。(中略)林被告のたえに酌むべき事情を最大限に考慮しても、極刑をもって臨むほかない」


 気持ちがしっかりと伝わってくる優れた判決文だったと思う。それは希望の余地というものがほとんど存在しないこの長い裁判を通して、最後に辛うじて差し込んできた微かな光明のようなものだったかもしれない。


 


十三の死 踏まえ考える


 


 それでも死刑判決を生まれて初めて、実際に法廷で耳にして、それからの数日はうまく現実生活に戻っていくことができなかった。胸に何かひとつ、鈍いおもりが入っているような気がしたものだ。裁判長の口から死刑が宣告されたその瞬間から既に、死は法廷の中に姿を現していた。


 そして今、オウム事件関連の死刑囚、13人全員の死刑が執行されたとの報を受けて、やはり同じように胸の中のおもりの存在を感じている。表現する言葉をうまく見つけることができない重い沈黙が、僕の中にある。あの法廷に現れた死は、遂にその取り分をとっていったのだ。


 13人の集団処刑(とあえて呼びたい)が正しい決断であったのかどうか、白か黒かをここで断ずることはできそうにない。あまりに多くの人々の顔が脳裏に浮かんでくるし、あまりに多くの思いがあたりに漂っている。ただひとつ今の僕に言えるのは、今回の死刑執行によって、オウム関連の事件が終結したわけではないということだ。もしそこに「これを事件の幕引きにしよう」という何かしらの意図が働いていたとしたら、あるいはこれを好機ととらえて死刑という制度をより恒常的なものにしようという思惑があったとしたら、それは間違ったことであり、そのような戦略の存在は決して赦されるべきではない。


 オウム関連の事件に関して、我々にはそしてもちろん僕自身にもそこから学びとらなくてはならない案件がまだたくさんあるし、13人の死によってそのアクセスの扉が閉じられたわけではない。我々は彼らの死を踏まえ、その今は亡き生命の重みを感じながら、「不幸かつ不運」の意味をもう一度深く考え直してみるべきだろう。


 


おわり


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胸の中の鈍いおもり 村上春樹 2 [スズムシ日記]

遺族感情 どこまで反映


 


 ただ、遺族感情というのはなかなかむずかいい問題だ。たとえば妻と子供を殺された夫が証言台に立って、「この犯人が憎くてたまらない。一度の死刑じゃ足りない。何度でも死刑にしてほいい」と涙ながらに訴えたとする。裁判員の判断はおそらく死刑判決の方向にいくらか傾くだろう。それに反して、同じ夫が「この犯人は自分の手で絞め殺してやりたいくらい憎い。憎くてたまらない。しかし私はもうこれ以上人が死ぬのを目にしたくはない。だから死刑判決は避けてほしい」と訴えたとすれば、裁判員はおそらく死刑判決ではない方向に傾くだろう。そのように「遺族感情」で一人の人間の命が左右されるというのは、果たして公正はことだろうか? 僕としてはその部分がどうしても割り切れないでいる。みなさんはどのようにお考えになるだろう?


 


葛藤 秘められたまま


 僕は「アンダーグラウンド」を出版したあと、東京地裁と東京高裁に通って地下鉄サリン・ガス事件関連の裁判を傍聴することにした。仕事の関係で旅行に出ることも多く、もちろんすべての法廷には通えなかったが、東京にいるときは時間の許す限り傍聴した。とくに林泰男(元死刑囚)の裁判には関心があったので、そちらを主にフォローした。僕が林泰男の裁判に関心を持ったのは、彼がサリン・ガスを散布した日比谷線(中目黒行き)の車両がもっとも多くの被害者を出し、そのうち8人が命を落とされたからだ。僕がインタビューした被害者も、その車両に乗っていた人が圧倒的に多かった。彼は他の実行犯たちが、サリン・ガス溶液の入って2つのビニール袋を、尖らせた傘の先で突いたのに対し、自分が進んでビニール袋を3つに増やしてもらい、それを突いた。そのことも被害者の多さに繋がったと言われる。その林泰男というのはいったいどういう人物だろう? どのようにしてそんな重大な犯罪を犯すに至ったのだろう? 僕としてはそれを自分の目で見届けたかった。伝聞なんかではない第一次情報として知りたかった。


 結果として、林泰男はかなり複雑な感情を抱えた人間だという印象を僕は持った。今ここで「彼はこういう人間だ」とはっきり割り切ることは、とてもできそうにない。彼の裁判には何度も足を運んだが被告席に座った彼が何を考え、何を感じているか、その本当の気持ちを見極めることはむずかしかった。どちらかといえば、自分にとって大事なものは殻の中に収め、人目には晒さないという態度を静かに保っているように見えた。長い逃亡生活中に身につけたガードの強さみたいなものも、そこにはあったかもしれない。相反するいくつかの感情を、うまく統合しきれないまま、捌ききれないまま自分の中に抱え込んでいるような印象も受けた。ただ自らの行為を悔やみ、審理の進行に対して終始協力的であったとは聞いている。


 昔の友人や知人の証言を総合すると、本来は前向きで、真面目な考え方をする素直な青年であったようだ。弱い部分や、心の傷を抱えてはいたが、自ら律しようという意志もそれなりに強かった。多くの人々が彼に対して好感を抱いていたようだ。しかしそのような真摯で前向きの姿勢をうまく活用できる状況に、自分の身を置くことがむずかしかったらしい。それはこの裁判で裁かれた多くの元オウム真理教信者について、共通して言えることでもあるのだが……。そして「修行」という名の新しい文脈が、彼ら充たさざる思いを手際よく有効に、そして結局はきわめて邪悪に、すくい上げていくことになった。


 林泰男の裁判に関して、僕がよく覚えているのは、法廷にいつも必ず彼のお母さんが見えていたことだ。誰かが「あれが林の母親だよ」と教えてくれた。小柄な女性で、よく僕の前の傍聴席に座っておられた。裁判のあいだじゅう、ほとんどぴくりともせず、たぶん被告席の息子の方をじっと見ておられたのだと思う。彼女の姿が法廷に見当たらなくなったのは、判決言い渡しの当日だけだった。おそらく息子に極刑の判決が下りることを覚悟し、それを実際に耳にすることに耐えられなかったのだろう。まだお元気でおられるか、今回の死刑執行の報を耳にしてどのように感じておられるか、それを思うと胸が痛む。


 


つづく


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胸の中の鈍いおもり 村上春樹 [スズムシ日記]

オウム13人死刑執行に対して村上春樹が毎日新聞に寄稿した。(29日付)みんなも既読だと思うが、備忘禄のつもりでブログ記載しておこう。1週間も経つと、次から次へとニュースが飛び込んできて、死刑のことなど過去のことになってしまう。

それでは、まいりますぞ。長文だ。

 

死刑の持つ意味

 

726日に、76日に続いて2度目の死刑執行が一斉におこなわれ、これで死刑判決を受けた元オウム真理教信者の13人、すべてが処刑されたことになる。実にあっという間のできことだった。

一般的なことをいえば、僕は死刑制度そのものに反対の立場をとっている。(ぼくもそうだ:スズムシ)人を殺すのは重い罪だし、当然その罪は償わなくてはならない。しかし人が人を殺すのと体制=制度が人を殺すのとでは、その意味あいは根本的に異なってくるはずだ。そして死が究極の償いの形であるという考え方は、世界的な視野から見て、もはやコンセンサスでなくなりつつある。またえ冤罪事件の数の驚くべき多さは、現今の司法システムが過ちを犯す可能性を技術的にせよ原理的にせよ排除しきれないことを示している。そういう意味では死刑は、文字通り致死的な危険性を含んだ制度であると言ってもいいだろう。

しかしその一方で、「アンダーグラウンド」という本を書く過程で、丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、「私は死刑制度に反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる。「この犯人はとても赦すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい」という一部遺族の気持ちは、痛いほど伝わってくる。その事件に遭遇することによってとても多くの人々が多少の差こそあれ人生の進路を変えられてしまったのだ。有形無形、様々な意味合いにおいてもう元に戻れないと感じておられる方も少なからずおられるはずだ。

僕は自分の書いた本を読み直して泣いたりするようなことはまずないが、この「アンダーグラウンド」という本だけは、必要があって読み返すたびに、いくつかの箇所で思わず涙が溢れ出てきてしまう。そのインタビューをしていたときの空気が、そこにあった気配や物音や息づかいが、自分のなかにありありと蘇ってきて、息が詰まってしまうのだ。たとえセンチメンタルだと言われようと、僕は本を(小説を)書く人間として、そういう自然な気持ちを抑え込んでしまいたくないし、できることならそれを少しでも多く読者に伝えたいと思う。また僕自身も、この一冊の本を書くことを通して、自分の中で何かが確実に変化したとい感触を持っている。 つづく


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福岡伸一の動的平衡 2018・7・5 [スズムシ日記]

生命 かつ消えかつ結びて

 

ノーベル賞学者の大隈良典先生とお話する機会があった。オートファジー研究の先駆者。オートファジーとは細胞内の分解システムのこと。私も小なりとはいえ細胞内たんぱく質輸送を研究していたので先生とは以前から交流がある。

 先生はこんな風にご自分の研究を述懐された。研究を始めた頃は、合成の研究が花盛りで、分解の研究はほとんどかえりみる人がいなかった。合成はポジティブで建設的なもの、分解はネガティブで取るに足らないものと思われていたのです。

 ところが研究の進展によって、細胞は物質を合成する以上に、分解することを一生懸命していることがわかってきた。たんぱく質合成の方法は一通りなのに、分解には複数の経路が多重に用意されていた。そして生命現象は絶えまない合成と分解のバランスの上に立っている。このコラムのタイトルにもそんな思いが込められている。

 方丈記の冒頭ほどみごとに生命の動的平衡を言い表した文章を私は知らない。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまるためしなし」。あらためてこれを読んでみて大発見をした。なんと鴨長明は、消えることを結ぶことよりも先に書いているでは亡いか! つまり、合成よりも分解の意義の優位性をすでに言い当てていたのだ。


福岡さん

そうは言っても、泡沫(うたかた)は渦を巻いて攪拌されて、水の中の不純物が湧き出したものだ。だからやっぱり生成が最初なんだ。それからそれこそ泡沫になって消えていく。玉川の洗剤の泡はひどかったな。今は鮎さえ遡上するようになった。下水道の整備が成り立ったからだ。インドや中国の大河はひどいものだね。

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国分VSガブリエル  [スズムシ日記]

倫理は教育できるのか


 


 ――会場からの質問を受ける前に一つ質問させてください。民主主義には倫理が欠かせないということでしたが、それはどう教育できるのでしょうか。相次ぐテロなどをみていると、民主主義を含む欧米型の政治体制に反発を抱く人は少なくありません。


 ガブリエル氏:あらゆる子どもたちは生まれたときに、倫理的な問題に対するある種の感性を持って生まれてきます。子どもたちはすぐに規範というものを求めるようになります。人間というのは、規範性に対する感性を持って生まれてくる。つまり、大多数の人間は、生活において規範的な構造というものを探しながら生活するわけです。


 その時に選択肢が限定されたものにならないといけないわけです。もし私たちが子どもたちに倫理を早い段階で教育したとしたら、彼らがのちに権力や社会的地位を得た時に、何でも選択するわけではなくて、例えばいまおっしゃったような、民主主義の価値をまったく信じていないような人々が行ってしまうような論理づけ、理由づけにおける誤謬(ごびゅう)、誤りというものがだいたいなくなるわけです。


 民主主義を信じないで排外運動に傾くような人たちは、欠陥を含んだ理由付けをしてしまっています。例えば「ユダヤ人は悪いやつだ」と信じている人たちに「なぜそう考えるのか」と聞くと、そのときにかえってくる理由づけは、まさに欠陥を含んでいる薄弱な推論です。


 もちろん、倫理的な教育をしたとしても、そのうえで人々の意見が異なって合意しない、意見の食い違いは存在します。ただその時の意見の食い違いは合理的な形をとるようになるわけです。つまり、ちゃんとした理由づけをできる人たち同士の意見の違い、互いに違うようになるという状態は、それ自体が倫理的な状況と呼ぶことができます。なぜかというと、同意していない物事についての「幅」がすでに限定されていて、そこでの意見の不一致はめちゃくちゃなものではなくて、合理的なものになっている。そういうものが実現された状態こそが、私が民主主義の「倫理的な土台」と呼ぶようなものです。


多数決は平等なのか


 


 【会場からの質問】いまの民主主義は本当に平等なのか疑問です。多数決は平等なのでしょうか。結局、少数に回ってしまった意見は切り捨てられてしまいますし、代表として選ばれた人は選んだ人の利益だけを追求しており、みんなの権利を探していく民主主義の理念からは隔絶したものに感じられます。


 もう一点、なぜ民主主義は専門家に任せられないのか。例えば水、病院、通信の管理は専門家に任されています。そこには信頼の上でいろんなものが成り立っていますが、なぜ政治は成り立たないのか。自分には自分の専門があって、政治について考える時間がない。すごく短い時間で、政治家が口で言っているすごく少量のことからしか考えられない。自分自身もみんなも無知で、無知な人が代表を選んで、結局はうまくいかない。


 だったら全体を考えてくれる人に任せる選択肢があってもいいのではないか。今まで失敗しまくってきたのかもしれませんが。


 國分氏:日本では「民主主義とは多数決である」という通念が非常に強く存在しています。そんな考えはドイツであるのか、お伺いしたいです。


 あとなぜ専門家に政治を任せてはいけないのかという点に僕が応えておくと、そうやってしまうと、自分が困ったときに何もできなくなるということだと思うんです。道路を作りますが、あなたの家が邪魔ですのでどいてくださいと言われた時、何も言い返せない。確かに何の危機もないときは、政治に参加していなくても何も困らない。けれども、災難が降りかかったときにはものすごく困ります。


 ガブリエル氏:どちらの質問も面白いのですが、日本に来てからよく聞くのが「少数派をどう扱うべきか」という問題です。ドイツでは多数決ではなく、同意を形成していくことが重視されています。今日の話でいうと、「倫理的な土台」を考えるときに、多数決で圧倒的な多数を占めたからといって、その意見が重要なのではなく、「倫理的な土台」に基づいて考えたから、その決定がみんなのためになるから効力、力を持つわけです。


 例えば何か権利を行使するさいには義務がある。その義務とは反対する人を抑圧しない形で権利を実行していかなければならないということです。そうでなければ、倫理的な誤りを犯すことになるでしょう。


 もう一点ですが、専門家に任せればいいというのは、まさに中国がそういったモデルになっていますが、私はその仕組みに賛成しません。ある種の独裁です。それが監視社会と結びつく。専門家と監視社会が結びついて独裁がもたらされるというのは、わりと専門家が一致する見解ではないでしょうか。


 國分氏:一つだけ。僕は住民投票は最後の手段だと思っています。他にどうしようもない時に使われるべき手段ですね。あと、住民投票の制度は、いろいろなかたちが研究されています。単に「51%だったらOK」とはしないやり方があるということだけは言っておきます。


【会場からの質問】お二人にお聞きしたいのですが、ものすごい衝撃を受けたテーゼが二つあります。一つは「民主主義と国民国家は相いれない」。もう一つは「民主主義と主権は相いれない」という。国民国家も主権も必要としない、それに代わる新しいシステムはありうるのか。公聴会の話がでましたが、日本では往々にして政府の息がかかったものになり、あまり実質的な効果を果たしていない。ドイツではそれを防ぐ仕組みがあるのかどうか教えてください。


 國分氏:実のところ僕も、ガブリエルさんはそこまではっきり言うんだとは思いました。ただ、国民国家について少しだけ言っておくと、国民国家と国家は違うので、国民国家はなくなっていっても、国家は残るわけですよね。国家という制度は簡単にはなくならない。他方、主権なき政治、主権なき民主主義については、僕は今のところアイデアはありません。ただ言えるのは、主権という概念を金科玉条にしてはいけないということです。僕らはもう少し主権に懐疑的になるべきだと思います。


 ガブリエル氏:国民国家については連邦モデルで考えています。つまり、グローバルな政府というものを連邦モデルで考えていて、今の国家のような構造をもっていて、例えば日本でも地方自治体があり、国家があるような同じ構造をグローバルでやればいいと。だから、グローバルな政府の下にローカルな州(国家)があって、今の国民国家モデルをグローバルに拡張した連邦モデルが、一つのモデルのないのではないか。


 そしてそのとき、市民権がない、いわゆる「不法滞在労働者」と呼ばれるような人たちに対して、グローバルなパスポートを発行する必要があるでしょう。グローバルな次元でのシチズンシップが保障されて、個々のローカルな政府があり、ローカルな次元の規制も存在する、さまざまな地域差がありながらも、場所を移動できるグローバルパスポートが必要になる。何でもありのアナーキズムではなく、さまざまな規制のもとに成り立ったモデルになります。


 その場合、地域ごとのさまざまな「情報処理」が必要で、具体的にどうなるかは検討が必要ですがまず、こうしたことを考え始める必要があります。考えれば将来的にどういうものが可能か、が見えてくるでしょう。


 政治理論をやっている人たちが、本や新聞などでこうした考えを発表することで人々に広まり、現実に実行されるということが歴史上においても様々な形で起きたわけですし、こうした問題をグローバルな文脈で考えていく必要があるでしょう。


 主権なしの政治体制というのも同じで、当然ここで言えるような解決策はないわけですが、解決策に向けて一緒に考え始める必要がある。そのために、ほかの人たちと話し、対話をしながら考えていく必要があるでしょう。


 三つ目の公聴会については一つの提案があって、公聴会のメンバーの3分の2の専門家は対立している野党が選び、3分の1は与党が選ぶ形にすればいいんじゃないかと。そうすると与党側が自分たちが決定したい法律を通す際に、野党が多くのメンバーを送り込めるわけで、より超党派的な形で取引を結んでいかなければならない状況に追い込まれるわけで、それが一つの制約になるのではないでしょうか。


 


 ――ありがとうございました。民主主義、国民国家、倫理的な土台まで、盛りだくさんの話でした。ガブリエルさん、國分さん、それから完璧な通訳をしてくださった斎藤さんに大きな拍手をお願いいたします。


     


 Markus Gabriel 1980年生まれ。独ボン大教授。専門はドイツ観念論など。著書に「なぜ世界は存在しないのか」、スラヴォイ・ジジェクとの共著「神話・狂気・哄笑」など。ポストモダン思想への批判で知られ、新しい実在論という立場から議論を展開している。


 


おわり


 


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国分VSガブリエル  [スズムシ日記]

立憲主義と民主主義


 


 國分氏:次に立憲主義と民主主義の関係について話し合っていきたいと思います。まず、簡単な質問なんですが、ドイツでは「立憲主義」って言いますか?


 ガブリエル氏:言いますよ、もちろん。


 國分氏:実はこの言葉、日本では少し前まであまり使われなかった言葉なんです。法律の専門家は使っていたけれども、一般的にはほとんど耳にすることはありませんでした。どうしてこんな専門的な言葉が注目を集めるようになったのかというと、この原則が危うくなってきたからです。


 立憲主義の考え方というのはある意味では簡単で、どんな権力も制約を受けるということです。民主主義というのは民衆が権力をつくる政治体制のことであり、これと立憲主義を組み合わせたのが近代国家の基本的な枠組みであるわけですが、だとすると、立憲的民主主義の政治体制においては、「民衆が権力を作るけれども、その権力でさえも憲法によって制約を受ける」ということになるわけです。つまり、「民主主義だからといって民主的に決めれば何でもやってよいわけではない」というのがその基本的な考え方になります。


 すごく分かりやすい例を挙げると、人種差別を合法化するような法案を国会で通すことは民主主義においてあり得ます。しかし、そういう法はあらかじめ憲法によって禁止されているので、最終的にはボツになる。そうやって、あらかじめ民主主義がやっていい範囲を決めておくのが立憲主義の考え方です。ただ、立憲主義と民主主義の関係は、国とか、地域、歴史によって色々変わってくるものだと思います。ドイツでは、民衆の力としての民主主義と、それに対する憲法の制約について、どういうふうに受け止められているでしょうか? ドイツは立憲主義的な発想が非常に強いと聞いていますが、どうでしょうか?


 ガブリエル氏:まさにこの問題はドイツにとっても中心的な問題で、立憲主義も様々な論者が強調する問題です。立憲主義とは、どのような権力も制限されなければならないということです。ドイツの憲法でも立憲主義が言われており、第1条は、人間の尊厳は不可侵である、としています。これが第一命題となっていて、そのうえで2条、3条以降も書かれている。


 私の今日の話は、このドイツ憲法第1条の私なりの解釈だったわけです。戦後ドイツは人々が権力をどのように制約するかという観点から憲法をつくったわけですが、重視されたのは、倫理的な土台がなければならないということです。政治的なシステム、つまり国家は単なる形式的なシステムではなく、倫理的な基礎をもったシステムになっていなければなりません。倫理的な基礎がなければ、すぐに無制約的なシステムや権力に取って代わられてしまうと考えました。


 國分氏:いまのお話に同意です。ただ、いまおっしゃった「倫理的な基礎」についてはもう少し考えるべきことがあると思うんです。現在の首相である安倍氏は、「憲法解釈に責任をもつのは内閣法制局長官ではなく、選挙で国民の審判を受けるこの私だ」という発言をして物議を醸したことがあります。こう発言する彼が、法とは何か、憲法とは何か、立憲主義とは何かについて、何も知らないし、何も分かっていない、無知な人間であることは明らかです。しかし、そこには、それでもなお論ずべき論点があると思います。それは何かというと「民主的な権力はいったいどこまで及ぶのか? どこまで及ぶべきなのか?」という問いです。


 もちろん、ドイツの憲法第1条の理念を否定する人はいないと思います。でも、「憲法に書かれているからもう絶対に誰も手出しできない」ということは、民主主義の理念とどう折り合いをつけることができるのか。この問いは抽象的には考えられないものかもしれず、論点ごとに考えなければならないことかもしれません。ただ理論的問題としてそういう問題があることは指摘しておきたいのです。


 こう述べながら僕が思い出しているのは、アントニオ・ネグリという哲学者です。ネグリ氏はイタリアの左派の哲学者として世界的に有名な人ですが、このネグリ氏は明確に立憲主義に反対しています。彼に言わせれば、民主主義は、民衆が自分たちで自分たちのことを決める政治体制なのだから、どうして他の原理が必要なのかということになるわけです。僕はネグリ氏に同意しませんが、しかし気持ちは分かる感じもするわけです。


 立憲主義というのはある意味、エリート主義的な原理だと思います。民主主義が下からつくっていくものだとしたら、立憲主義は上から「はいダメ」と言ってくる。だから立憲主義に反対する人がいることは分からないではないのです。日本の首相だけではなく、哲学者にもそういう人がいる。「なぜ自分たちが決めちゃいけないのか」という民衆の反発をどう考えたらよいでしょうか。


 ガブリエル氏:幸運なことに、人間の尊厳についてドイツでは「それが必要ない」というふうに誰も否定しないわけです。それは極右であっても、どんな人であっても人間の尊厳の重要性については否定しない。このことからも分かるように、民主主義は制限されています。民主主義が決定できることは「全部」についてではないわけです。例えば我々は「誰かを拷問するかどうか」について、投票を行うべきではありません。この部屋で誰かを拷問するかどうかを投票して決めてはいけないわけです。そういう意味で、民主主義が投票で決められる内容は制限されています。それに対して、極左の人たちは何でも決定できるという発想になってしまいますが、それが実現すると、スターリニズム、毛沢東主義になってしまう。だから私はネグリ氏の考えには明確に反対しています。民主主義にはとにかく制限が必要で、この制限はどういったものかというと、ふつうの正しい考え(ライト・マインド)を持っている人なら決して疑問視しない。


 例えば、人間の尊厳についての問題がそうでしょう。人間の尊厳を傷つける拷問は、民主主義が絶対に決めてはならない。つまり民主主義は自分自身に、つまりは民主主義自体に反対することができません。これが、私が主張するラディカル・デモクラシーという理念になります。「民主主義は民主主義についてのものである」というのがラディカル・デモクラシーの基本的な発想です。


 ヘーゲルは「法哲学」で「法は自由意志を欲する自由意志である」と言っています。つまり自由意志を実現するものに反対するようなことを望むことはできません。民主主義には決して疑問視されてはならない内容、事項が存在していて、もしそれを望んでしまうなら、2+2=7と言ってしまうような非常に大きな誤りを犯すことになる。2+2=7なら単に数学の計算間違いですが、民主主義の場合は、非常に深刻な倫理的な誤りを犯すことになるわけです。


 國分氏:日本では数年前、「いつまでたっても憲法を変えられないから憲法の変え方を変えてしまおう」と構想した首相がいて、それが今の首相です。今のルールの下で、ゲームのルールを変えることができるのかというすごく形而上学(けいしじょうがく)的な問題なんですが、総スカンを食らったので彼はこれを引っ込めました。ところが、そういう光景を目にしても日本人はあまり驚かなかった。あれにもっと驚くべきだったということだと思います。立憲主義的な価値の共有がいかに尊重されているか、それがドイツの話からよく分かったように思います。これを日本でどう実現できるか。そうしたことを思って話を伺っていました。


 


つづく


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国分VSガブリエル  [スズムシ日記]

民主主義の理念と実行の緊張関係


 


 ガブリエル氏:まさにおっしゃるとおりです。ここには再び、ここまで話してきた緊張関係が存在しています。つまり、民主主義の理念と、実際にそれをどう実行・実現していくかという問題の間にある緊張です。これは行政の問題になってくるわけですが、行政というのは「中間の媒介的な層」であって、経済、警察の問題、あるいは、火事が起きた時に消防士を派遣するといった問題に対応するわけですが、情報は複雑なわけですから、行政の役割とは、情報を、フィルターを通じて濾過(ろか)して複雑さを減らして処理することなわけです。


 ここでの問題は、そうしたフィルタリングを通じて行政がだんだんと権力を増していくことです。つまり、情報処理すること自体が行政に権力を与えてしまう。この問題に対抗するには、倫理的なものが必要になります。民主主義をいざ実行しようとすると、そうした問題が出てきます。ルソーはかつて「市民宗教が必要だ」と言ったわけですが、これがまさに今で言う倫理が必要という話です。人々が責任感をもって行政を扱う必要があります。行政を行う人もまた市民なのです。


 例えばメルケルであっても、法の前では私と同じ市民であって、その意味では「平等」なのです。メルケルはもし気にくわなければ権力を使って私を抑圧することができるかもしれません。でも倫理的にみたらそれは誤りを侵していることになります。とはいえ、抑圧することは非常に簡単なわけです。


 そういう意味では、哲学が出来るだけ速い段階で人々に教育されること、つまり倫理的判断が出来るためのトレーニングを初期教育として行っていく必要があると思います。中学や高校で、数学と同じように教えるべきなのです。数学もトレーニングなしにはできないように、倫理的判断もトレーニングなしにはできません。倫理的教育は簡単なものであれば5~6歳でもできるので、出来るだけ速く学校で、哲学を他の学問と同じように教えるべきだと考えています。


 國分氏:同感です。実はいま日本では役人が書類を勝手に書き換えたことが問題になっています。この事件は役人が悪いというより、政治家がプレッシャーをかけているから起こったものなのですが、実のところ、僕はあの事件で一番問題だと思うのは、あまり大衆が強く怒っていないことです。とんでもないことが起こっているのに全然怒っていない。それどころか「もう分かったから報道はやめろ」という声すらある。


 僕はここでアレントが「全体主義の起源」で示した、大衆社会における大衆の姿を思い出します。アレントは「大衆は何も信じていないから、何でも信じる」と言っています。何か「これだけは動かせない」という価値を信じていないから、何が起きても「ああそうなんだ」とすぐに信じる。


 もう一つ大事な要素は、そうした「軽信」(何でも信じる)と合わさった「シニシズム」です。どういうことかというと、騙されたことが分かっても、その次の日には「ああ、まあそうだろうと思っていたよ。分かっていたよ」とシニカルにそれを受け入れてしまうのです。騙されていることに驚かない。僕は、これは完全に今の日本だなと感じます。首相が「福島の原発はアンダーコントロール」と言っても、怒らない。そういうことが常態化している。そして、そうした事態を招いている原因の一つは、アレントの分析に従うならば、人びとが何か価値を信じていないということにある。


 例えば今日、ガブリエルさんは「民主主義において平等が大切だ。価値を共有することで権利が生まれる」とおっしゃった。僕もその通りだと思いますが、日本の問題は「平等」とか「権利」といった価値が信じられていないということなのです。ここからルソーの言う「市民宗教」について考えることもできるでしょう。「市民宗教」もまた、ある種の価値の共有のために必要とされるのです。僕は最近「信じる」ということが大切だと思っているんです。ではどうすれば、みんなが価値を信じることが出来るのだろうか。これはガブリエルさんに伺うようなことではないかもしれませんが、もしご意見があれば伺いたいです。


 ガブリエル氏:大衆心理に対する診断について、完全に同意します。これは解決策ではなくある種の提案ですが、教育において読み書きを教えるわけですが、読み書きについてはみんな「それは必要だ」というわけです。読み書きなんて教えなくていいという人がいたら「狂っている」と思うでしょう。それに対して、倫理的なことについて無知な状態は一般に受け入れられてしまっています。この状況は本当に大きな過ちです。私たちが民主主義的な社会システムのもとで生きている状況で、本来は「自由に考える」ということが重要ですが、幼稚園や学校では決して教えられない。むしろ「自由に考えない」ように教えられているわけです。


 本来、「自由に考える」というのが最も重要な教育における原理であって、最初に挙げられた大衆の問題も「自由に考える」ということを徹底すれば解決できる問題なのではないでしょうか。いま日本でもドイツでも直面している問題は同じもので、「自由に考える」ということで一つの解決策が見えてくるのではないか。


 もし、「自由に考えること」ということに同意しない人がいたら会ってみたいですね。トランプ(米大統領)は同意しないかもしれないが、彼は民主主義者じゃないので放っておきましょう。


つづく


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国分VSガブリエル [スズムシ日記]

専門家の意義


 


 ガブリエル氏:私が言っていたモデルというのは、別に科学者や専門家がそのまま政治家になって統治をすべきというものではありません。政治家自身も当然、私が言ったような政治家としての地位があるので、それは尊重されなくてはなりません。実際、専門家という点においては、今のシステムでは官僚がいるわけです。官僚が年金などの問題についての専門家として既に存在しており、彼らは終身雇用の立場で、政治家たちよりも長い期間はたらく専門家として機能しています。たまたまドイツでは博士号を持った物理学者のメルケルが首相で、彼女は物理学の専門家でもあるわけですが、それはたまたまであって、そういう人が首相になることを、私が薦めているわけではありません。いずれにせよ、官僚のような専門家は必要なのです。


 私が言ったのは、公聴会がもっと必要で、重要な問題について公聴会を必ず開かなければならないということです。実際、法律の教授なら法律の技術的で複雑な問題について相談を受けて、公聴会がしばしば開かれているし、経済学の教授なら同じような形で(経済に関する)公聴会に呼ばれています。ところが、哲学の公聴会はどのくらいの頻度で開かれているしょうか。化学だったら、薬学だったらどうでしょうか。こうした問題についても、もっともっと公聴会を開いていく必要がある、というのが私の考えです。


 その上で付け加えますが、いままさに話しているこの場も公共の場、「公共圏」ということです。そういう意味ではジャーナリズムも非常に重要です。ここではある種の「分業」があるわけですが、まさに「公聴会」はこうしたかたちでも開かれているといえます。この場で私たちの話を聞いて、みなさんは(市民として)自分なりの意見を形成することが出来るのであって、こうした場をもっともっとつくっていく必要があるでしょう。ですからジャーナリズムは民主主義のために非常に重要なものです。


 もう一点あるとすれば、インターネットの問題です。インターネットをどう規制するかが非常に重要になってくるでしょう。なぜかというと間違った情報ばかりでは、しっかりとした公共圏が形成されないので、インターネットを「野性」の「なんでもあり」の状態で放置しておくわけにはいきません。その意味で規制を考えていく必要があります。その上で、主権を含めて民主主義をどうやって実現していくかという問題を考えていかなければなりません。


國分氏:「知識」を通じて考えた問題にもう少し、こだわりたいのですが、公聴会をめぐるガブリエルさんの提案に僕は賛成です。「来るべき民主主義」(幻冬舎新書)という著作で僕が民主主義について提案したことも、とても穏やかなことです。議会は万能でも何でもない。ところが民主主義の話をすると、みんなすぐに議会の話になる。「議会をよくしよう」という。でもそうではなくて、民主主義にはもっと別の、民衆の意思の実現ルートがあっていいはずです。例えば僕が関わった住民投票もその一つだし、公聴会もそう。そうしたいろんなパーツを民主主義に足していって、民主主義的な意思の実現のルートを増やすという提案を僕はしてきました。ですから、今のガブリエルさんの話にすごく共感するところがありました。


 さきほど行政権力の問題に触れましたが、この点について別の観点から考えてみましょう。行政権力が専門化しているがゆえに極めて強い力を持つというのは、20世紀にずっと指摘されていたことです。「行政国家」という専門用語でこれはずっと論じられてきました。ただ、行政の方が民主的な手続きに先立って動いてしまうことには理由があるというか、必然性もあるんですね。それは何かというと「スピード」の問題です。グローバリゼーション下では信じられないスピードで、災難が国に降りかかってくるわけです。それに対していちいち選挙して代議士を出して、議会で話し合って……ということは正直できない。いまのグローバリゼーション下では、猛スピードで事態が進行するため、どうしても行政権力は強くなります。


 ドイツというのはある意味で、これを20世紀頭に悲劇的な形で体験した国だと思います。というのも大恐慌が起きて、ワイマール期の民主的な議会は何も決められなくなっていき、どんどん立法権を行政の方に手渡していくということが起こる。そうした結果としてナチズムが出てくるわけです。ナチスによる独裁というのは要するに行政が立法権を持つ、ということです。


 行政は法律によって常に規制されているし、規制されなければならないわけですが、自分たちで自分たちのルールを作ってしまうというのは自分たちで好きに出来るということですから、これは行政の「夢」なんですね。ナチズムとは、絶対に実現してはならない行政の「夢」を実現してしまったものとしてみることができます。


 民主的な手続きにはスピードの点で劣るという構造的な弱点がある。特に現代では民主主義とスピードの問題を無視できないと思う。これはポール・ヴィリリオ的な問題ですがどう考えますか。


つづく


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国分VSガブリエル  [スズムシ日記]

民主主義と主権


 


 國分氏:もう一つ、非常に強い主張が出されたと思います。先ほどの「国民国家と民主主義は相いれない」というテーゼに加えて、「民主主義と主権の考え方は相いれない」というテーゼですね。これは僕は今の政治理論の最先端の問題だと思います。先日、僕は憲法学者の石川健治先生と憲法について話しましたが、石川先生も主権概念について非常に強い疑問を呈されていました。やはり正面から理論的に考えると、主権という概念には大いに問題があるのです。まやかしがあると言ってもいい。例えばハンナ・アレントは主権の概念をまったく認めない立場でした。僕の専門分野だと、デリダもずっと主権について批判的な考察をしてきました。だから、すごくよく分かる。


 ただ主権を要求しなければいけない場面も間違いなくあるということも一応付け加えておきたいと思います。3年前、僕はフランス留学時代の恩師であるエティエンヌ・バリバール先生がいるロンドンの大学に客員研究員として滞在していたんですが、その時、先生の講演会に行って、同じようなことを質問したことがありました。主権概念に問題があるのはよく分かる。しかし主権を要求しなければならない場合もあるのではないか、と。バリバール先生は、「それは『WHEN(いつ)』と『WHERE(どこで)』の問題だ」とおっしゃいました。やはり場合によっては主権を要求しなければならない。


 例えば、いま沖縄県で、外国の軍隊の基地が、ものすごくきれいな海を埋め立てて造られています。地元の人の反対の意思があるけれども、本土は基本的に無関心です。僕はしばしば「この国は本当に主権国家なのだろうか」と思います。「基地を造ろうとしている国の『属国』なんじゃないか」と感じるときがある。こういうとき、主権を要求する必要が出てきます。


 話を少し展開しましょう。ガブリエルさんの今日の話で印象的なのは、「平等」を非常に大切にされているとともに、「ナレッジ(知)」の重要性を強調されているところだと思います。僕はガブリエルさんに宛てた手紙を、自分が体験した、地元の道路建設をめぐる住民運動から書き起こしました。様々な知識や情報がきちんと共有されない。これは情報公開の問題でもありますが、行政と住民は知識と情報に非対称性があり、住民側からこういう事実があると持っていっても、一方的に「道路をつくる必要がある」と言われてしまう。民主的社会が実現するためには、知識と情報を行政と市民が平等に共有することが非常に重要だと思います。


 ただ、ここにパラドックスがあります。ガブリエルさんも政治家の無知について言及されていましたが、そうすると、たとえば専門知識がある人が大臣になるのがよいのだろうかと考えてしまいます。例えばイタリアでは先日、法学者が首相になりました。一見すると、経済学者が財務大臣になるといい気がします。けれどもそれには民主主義的には問題があります。専門知識を根拠として政治家や大臣が選ばれるとなると、それは民主主義的に見て正統なのかということです。もし専門知識を持った人が大臣をやるのがいいならば、選挙をやる意味がなくなってしまう。ここには、専門知識と民主主義的手続きの問題がなかなか一致しないという重大な問題があります。


 危機のときには専門知識を持った大臣の方がいい気もします。けれども、これを常態化、恒久化していいのか。もしこれを認めるなら僕らはある意味で民主主義を捨てることになります。けれども他方で、今の世の中でみんなが専門知識を持つことも不可能です。例えば僕は、年金の仕組みなど全然分からないわけです。厚生年金とかもよく分かっていない。自分に関係あるのに(笑)。これはある意味では20世紀頭ぐらい、あるいは19世紀からかもしれませんが、ずっとある「行政国家」がもつ問題です。専門知識が必要だけれども、それがなかなか民主主義の中では共有できない。この問題についてはどうですか。


 


つづく


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国民国家と民主主義


 


 國分氏:いまガブリエルさんは非常に強い主張をされたと思います。「国民国家は民主主義と相いれない」というものです。非常に強い主張で、これを僕はどういう風に扱ったらいいかなと聞きながら考えていました。一方でもちろん賛成です。カントの「永遠平和のために」という本がすごいのは、何か世界的なルールを作りましょうと言っているわけじゃないところです。カントは、「ホスピタリティー(歓待)」のルールさえあればいいと言っている。市民が互いに世界を行き交っていれば、自然と世界がよくなる、それ以上のルールを作ってはいけないという。これがカントの面白いところで、これが本当に実現されれば、確かに国民国家は薄まっていって、もしかしたらグローバルなシチズンシップにも近づいていくのかもしれません。「移民、難民は民主主義者なのだ」という主張も非常によく分かります。ある意味で、だからドイツは難民を受け入れる決断をして、まさしくカントが言っていたような「歓待」のルールを実践してきたわけです。


 ただ他方で、一足飛びにグローバルなシチズンシップに僕らは行けるのか、とも思います。そこで一つ問題になってくるのは、手紙の中で出した「主権」ということばです。主権というものは非常に扱いが難しい。一方で民主主義は「民衆が主権を行使する」ということを意味します。でも「主権」という概念はやはりどこか怪しくて、本当に自分たちで自分たちのことを統治できるのだろうかという疑いもあるわけです。国民国家という枠を取り払ってしまったときに、いったい主権はどういう形で担われることになるのか。つまり、グローバルなシチズンシップを目指していく中で、主権をどう考えたらいいのだろうか。


 というのも、ぼくは「主権」という考え方に懐疑的ですが、今のところ、主権がない政治を思い描けないのです。もしかしたらガブリエルさんは「主権のない政治」みたいなことを考えていますか? 主権についてどういうことを考えているかお聞きしたい。


 ガブリエル氏:私も、(その後に)デリダが議論した「歓待」という発想を支持しています。とはいえ、以下では「主権」というテーマの歴史にさかのぼって考えたいと思います。一番有名なのはトマス・ホッブズですが、ホッブズ自身は主権や民主主義というテーマで論じられることが多いものの、彼自身は民主主義者ではなく、むしろ奴隷を所有しました。彼の哲学、政治理論というのは矛盾を含んでいます。


 ですから、私たちは政治と主権というものの関係について考え直す、再考する必要があると思います。私たちが民主主義について考えるとき、しばしば「人民の主権」、自分たちで統治する、人々により多くの権力を与える、というかたちで考えがちですが、民主主義というものは、先ほど説明したように普遍的な価値システムなわけですから、主権という概念とは相いれないものです。


 なので、主権という概念はいりません。主権なしに新しく民主主義について考える必要があります。ホッブズの場合は、政治的な共同体を内戦の結果として生まれたものとして理解しています。自然状態では人々は闘争をしてしまうので、それを調停するために社会が生まれたと考えるわけですが、こういう考え方をやめる必要があります。実際、主権が存在しなければ人々は自然状態における内戦状態になってしまう、という実証的な裏付けは、ホッブズの主張にもかかわらず、ないわけです。


 むしろ、ホッブズの主権理論は、アメリカの先住民族に対するジェノサイドを正当化する目的で、自然状態を早く乗り越えないと内戦が深刻化してしまう、そのため強い主権が必要だ、という奴隷所有者としてのホッブズの主張と結びつけているわけで、そうしたものを受け入れる必要はないのです。


つづく


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どこからか言葉が 谷川俊太郎 18年7月25日 [スズムシ日記]

朝日新聞725日付『どこからか言葉が』。月一の連載詩。作者は我が谷川俊太郎。今回のお題は『トゲ。』感嘆詞のああ!が主題だ。同じ我が師の吉本隆明も自己表出といってああ!を言っていた。アフリカ時代の人々の発する言葉以前のああ!を。あれは花などの指示表出は枝葉だとも。ああ!の感嘆詞は幹にあたると。ああ!は子どもの専売だとおもうのだが。でも近頃の子どもは大人びて。つまらない。

それじゃあ。いきましょう。

 

トゲ

 

小鳥が囀っている

風が木の梢を揺らしている

その上の空

 

ヒトが創ったものは何ひとつない

すべては自然に生まれたのだ

私の胸は無言の感嘆詞でいっぱいだ

 

ああ!と言わせる存在を

限りない言葉に満ちた沈黙を

ただ一つの名で呼ぶことが出来るだろうか

 

すべては自然に属している

ただ「神」と呼ばれるものだけが

自然に宿りながら自然ではない

 

ヒトの言葉は自然に刺さったトゲ

バラのトゲが原因でリルケは死んだが

この地代の詩人はそれと気付かずに

 

言葉のトゲで

死ぬ

 

朝日の記者?赤田康和がトゲにコメントを挟んでいる。「バラと死 叙情豊かな空気で包む」と。

谷川さんにとって木々、小鳥など自然そのものが感嘆と愛情の対象。例えば詩集「空に小鳥がいなくなった日」の表題作は、人間が造る都市文明への批判もにじませつつ、<空に小鳥がいなくなった日/空は静かに涙ながした>とつづる。

本作でも<私>は人間より自然に共感し、小鳥のさえずりや木の梢を揺らす風に<無言の感嘆詞でいっぱい>になる。

そんな<私>を含む詩人たちが<ヒトの言葉>というトゲで死ぬという。言葉を生むことが生業の詩人が、言葉で死ぬというのは驚きだが、「手元も草稿にはもっと重たい詩がある」というから、あまり深刻にとらえなくてもよさそうだ。

詩人リルケはバラの棘による傷が原因で白血病になり死亡したとされる。「いかにも詩人らしい死に方だけどフィクションかもね」と谷川さん。美の象徴であるバラで詩人が命を落とすというモチーフが本作全体を軽快かつ叙情豊かな空気を包んでいる。


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国分VSガブリエル [スズムシ日記]

「価値と知」「メンバーシップ」について

 

 ガブリエル氏:二つのパートに分けて、國分さんのコメントに答えます。まずは、「価値と知」という問題。もう一つは「メンバーシップ」の問題になります。一つ目に関していえば、哲学だけがそうした「知」を明らかにする役割を担っているわけではなく、科学全体、社会学とか政治学とか、物理学とか数学とか、こうしたさまざまな学問がすべていっしょになって「知」を生み出しているわけです。(民主主義のための)「知」は、個々の学問分野がばらばらに生み出すことはできません。物理なら物理、政治なら政治、哲学なら哲学、科学はさまざまな法則を発見し、知を生み出しますが、そうしたものが集まることによって我々が必要とする知を獲得することが出来るのであって、こうした共同的な営みを実現していく必要があります。ただ、こうした共同的な営みはいまのところは起きていません。起きるべきだと私は言っています。それによって哲学は民主主義の実現に貢献することができるでしょう。

 國分さんは、非常に重要な問題、メンバーシップの問題を提起してくれましたね。この点について完全に同意します。つまり、民主主義の本質というのは、国民国家というものと相いれないということです。国民国家を超えて民主主義が拡張されなくてはならないという発想は、カントが言ったのが有名です。要するに、国民国家というものと民主主義は相いれないものなのです。これはまさに哲学的な洞察で、普遍性という原理からこうした洞察が導かれるわけです。この普遍性原理に基づかない民主主義を実現しようとすると、まさに帝国主義的なやり方になってしまう。まさに(今日の)グローバルなコミュニティーでは、民主主義を実現するためにまったく新しい構造が求められているわけです。

 もし国民国家をひたすら維持しようとするならば、多くの国に独裁的なものがうまれるでしょう。他にいくつかの小さな「希望の島」とでも言えるようなものはできるかもしれませんが。なぜかというと私たちが直面している問題を解決することが国民国家ではできないからです。私たちが直面している気候変動であったり、経済的な格差といったりした問題はグローバルな性格を持つものであって、そうしたものに対して、国境を線引きして、ここからこちらは関係ないと線を引いてしまうことはできません。

 難民や移民は、民主主義という名の下で自分たちの人権を求める権利を持っているわけです。しかし、そうした問題に対して、現在は彼らの人権を否定してしまうような状態になっています。この問題は非常にグローバルな現象ですが、彼らが求めているのはまさに人権を自分たちのものにするということです。彼らはまさに民主主義者と言えるでしょう。

 ただ現在は移民、難民の問題は、ポピュリストたちに利用されていて、ナショナリストのプロパガンダのために利用されてしまっています。私たちがこの状況において選べる道は二つあります。一つは、こうした状況を鑑みて、国民国家を超えた「グローバルなシチズンシップ」を与える民主主義の形式に転換していくこと。二つ目の選択は、まさに人類を破壊してしまうことです。私たちは今(国民国家に基づいた)民主主義の限界に直面しているといえるでしょう。


つづく

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国分VSガブリエル [スズムシ日記]

マルクス・ガブリエル×國分功一郎(対談)


 


 國分功一郎氏:たくさんの方に来ていただいてうれしく思います。ガブリエルさんにもわざわざ日本に来ていただいた。とてもうれしく思っています。少しだけ全般的な話をしてから、応答に入っていきたいと思います。先ほどこの対談を前に、高久記者から「いま哲学はブームになっていると思いますか」という質問を受けました。確かにガブリエルさんの本がよく売れていて、僕の本もまあまあ売れているのですが(笑)、ちょっとそういうブームがあるのかもしれない。哲学の本が売れる。さらには新聞社主催のイベントでこうして哲学を研究している僕らが話をするとなると、たくさんのお客さんが来て下さる。


 ガブリエルさんは今日、民主主義の危機をテーマに話しましたが、なぜ哲学がブームなのか、仮にブームがあるとすると、やはり危機と対応しているからだと思います。はっきり言って人が幸せに暮らしているときは、哲学はいらないんです。古代ギリシャでもやはり危機が起きたときに哲学が起こりました。プラトンがいたアテナイは、腐りきったアテナイだった。ですからいま哲学が求められているのだとしたら、それはやはり何らかの危機があるのだろうと思います。そして、恐らく今日ここに来ている方は、政治に関しての危機に非常に自覚的な方が多いと思います。きょうは、ガブリエルさんはドイツのボン大学の先生なので、ドイツの話も少しうかがいながらそれについて考えていきましょう。というよりも日本と同じ敗戦国としてスタートしたドイツを日本はしばしば比較対象としてきました。その比較は今でも有効だと思います。日本とドイツはどこが似ていてどこが違うのか。ドイツでは民主主義がどう考えられているのか。そうした点についてもおうかがいしたいと思っています。


 ではガブリエルさんの講演に応答していきましょう。デモクラシーの本質(ネイチャー)と、デモクラシーがいまいったいどう実行されているかという話を皮切りに、古代ギリシャフランス革命という例が出されました。強調されていたのはまず「価値」、僕らがどういう価値を民主主義的な価値と思っているのかということです。更に、それはどういう事実に基づいているのかというふうに話が展開され、そこからどういう権利が導き出されるのかというところまで話は及びました。つまり、バリュー(価値)、ファクト(事実)、ライト(権利)がいわば等号で結ばれるような形でガブリエルさんは語られた。哲学はしばしば「自然の発見」によって始まったと言われますが、哲学の役割の一つは、ファクトを発見していくことなのかもしれないと考えました。


 さて、ガブリエルさんが依拠された民主主義の価値の中心にあったのは、「平等」だと思います。平等という価値を一番大事なものとして民主主義をとらえているからこそ、古代ギリシャは奴隷がいたからダメだということになる。この平等を考える時、一つ厄介な問題があると思います。先ほどは経済的な平等の話が出ましたが、民主主義における平等という場合には、もう一つ大事な平等があると思います。それは「決定への平等な参加」、つまり「メンバーシップ」の問題です。


 言い換えれば、「僕は日本国民だから日本国の政治決定に、他の人と同じように平等に関われるはずだ」という権利の問題でもあります。しかし、いまグローバリゼーション下で問題になっているのは、いったいそのメンバーシップをどう確定できるのかということです。「日本国民に平等に決定権があるべきだ」という主張はとてもいい主張に聞こえる。でもそれは他方では、「外国人は入るべきではない」という主張にもなります。


 例えば昨年、フランス大統領選の際、マリーヌ・ルペンフランスの極右政党の候補)が最後まで残って世界を大変驚かせました。彼女は「フランスのことはフランス人が決めよう」と言っていました。よく事情を知らないでルペンの話を聞いているとけっこういい話に聞こえてしまう。僕はどういう人か知っているから「何を言っているんだ」となるけれど、実のところ、上ずみだけ聞いているととてもいいことを言っているように聞こえるのです。決定権における平等の問題が排除と結びつく場合があるという問題がここにはあります。


 僕らは国民国家をもはやこのまま維持できないということは分かっている。でも他方で、誰にでも決定権を与えてよいという考え方にみんなが賛成するかというと、ちょっと疑わしい。ではどうやって政治的決定権を考えるか、平等なメンバーシップの問題をどうガブリエルさんは考えているのでしょうか。


つづく


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国分VSガブリエル  [スズムシ日記]

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さて2番目の問題について話しましょう。現代の民主主義についてです。今の民主主義の危機を考えると、二つの大きな問題があると言えます。


 一つ目は、真理と知についての危機です。そして、二つ目が不平等という問題です。二つ目のほうが簡単なので二つ目(の不平等)から話を始めたいと思います。


 世界規模でみると、少数の人のみが先ほど言った人権の理念に合致した生活を送ることができています。なぜ少数の人たちがそのような生活を享受できているかというと、残りのものすごく大勢の人たちが、人権の理念に合致しない生活を送っているからです。


 これは古代ギリシャとまったく同じような状況で、つまりある種の奴隷制が世界規模でみると生じているのです。ただし、今回の場合は、古代ギリシャのように、国内に大勢の奴隷と一部のエリートがいるというわけではなく、先進国のために途上国の人がTシャツを作っているという状況です。そのため、自分たちのために途上国の大勢の人々が仕事をしているという状況が(利益を享受している少数の人間側に)見えない、言ってみればアウトソーシングをしているような状態になっているのが特徴です。


 そうした状態下での民主主義は普遍的ではありません。この状況は帝国主義的な方法でも解決できません。無理やり解決しようとして(民主主義の理念を帝国主義的に)拡張してしまったら、今度はTシャツをつくる人がいなくなってしまうでしょう。つまり現代の民主主義は、世界的な規模での不平等を必要としているのであって、それがすでに大きなものになっており、非常に深刻な問題になっています。


 もう一つの問題、つまり真理と知の問題に戻りましょう。私が言おうとしているのは、ポストトゥルースと呼ばれる事態のことです。民主主義のリーダーたちが、科学的な事実について無知な状態にあります。これは大統領のようなトップにいる人たちだけではなく、議会に選ばれている政治家たちも含めて、科学的な事実について完全に無知な状態に陥っています。例えばドイツではいま大麻を合法化するかどうかの議論がなされていますが、議論は事実をしっかり調べないままに、国会でただぺちゃくちゃしゃべっているだけの状態になってしまっている。これは事実に基づいて検討するという態度からかけ離れています。


 だからこそ必要なのは科学者たちであり、さらに言えば哲学者たちです。重要な問題については科学者や哲学者に意見を聞く公聴会が必要なのです。もしこうした公聴会なしに様々な決定がなされていくと、無知で自己中心的な政治家が私たちの生活にかかわる重要な決定を勝手にしてしまうことになります。こうした試みが私たちの民主主義を最終的に破壊することになります。


 ここにポピュリズムの矛盾が表れていることに注意が必要です。このポピュリズムの状況を変えるには、きちんとした情報が人々に行き届く公共圏を作り出すことが必要です。だからこそ科学と哲学が必要なのです。公共圏を作り出すことができなければ、私たちにはある種の独裁が待ち受けているでしょう。


 


つづく


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国分VSガブリエル [スズムシ日記]

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マルクス・ガブリエル氏の基調講演

「危機に瀕する民主主義」

 

 日本の哲学者と交流を持てるのを楽しみにしていました。きょうこれから國分さんからの手紙との関連で民主主義の危機について論じますが、二つのパートにわけて話を進めようと思います。最初に論じたいのは、民主主義の本質に関する問題、つまり民主主義とは何かという問いです。それを踏まえて後半では、民主主義は今、社会システムの中で実際にどのような形で実施されているのかについて話します。

 そのうえで最後に、民主主義の危機とは、前半で論じるその「本質」と、現在実施されている制度の間にある距離、隔たりから生まれているのだ、ということを指摘したいと思います。

 民主主義が誕生した時期として、一般的に二つの時期が語られます。古代ギリシャフランス革命です。では、なぜこの時期に民主主義が生まれたかを考えてみると、民主主義がある種の「価値」に対応する形で生まれてきたことがわかります。ここでいう「価値」とは「事実」に関するものです。例えば子どもを虐待してはいけないという価値(判断)は、子どもを虐待してはならないという事実に対応しています。同様に民主主義について考えるならば、民主主義の価値は、人間は人間として存在することができるためには、けっして誰にも譲渡できないような諸権利を必ずや必要とする、という事実に対応しているのです。ではどういう権利が必要かというと、人間として充実した意味のある人生を送るための条件、幸せな生活を送る条件を人間は必要としており、こうしたものが権利の内容になります。

 これが人権と呼ばれるものですが、人権とは言い換えるならば、人間が人間としての人生、生活を送るために必要な条件です。民主主義とは、こうした人間が人間として存在するための権利を実現することを目指す政治システムということになります。

 まずこの単純な話を基礎として、理想的な民主主義の定義について話すことができます。つまり、どのような社会的、経済的、政治的条件のもとでなら人々は充実した生活を送ることができるか、という問いに答えていくことで、理想的な民主主義を定義することができるでしょう。

 では実際にはどう定義していくのか。社会学、経済学など様々な学問がその条件を明らかにする役割を果たします。その意味で、民主主義とは、知に――それを知の体系と呼んでもいいでしょう――基づいたシステムということになります。ですから、まず私たちは、自分たちが生きていくために、どういった条件が必要なのかを事実として知る必要がある。民主主義とは知に基づいた統治形式と定義することができます。

 古代ギリシャの民主主義がなぜ失敗したのかについて話しましょう。簡単に言えば、その民主主義が「みんなのための」民主主義ではなかったからです。当時は奴隷がいました。奴隷は、民主主義の基本的な理念と矛盾しています。奴隷は奴隷所有者のために働くことを義務付けられており、自分のしたいことを行うことができません。こうしたエリート主義的なシステムでは民主主義は実現しませんでした。

 また、フランス革命の後の民主主義の試みも失敗しています。このときは、ナポレオンが目指した民主主義の拡大という試みが帝国主義的な性格を内包していたからです。帝国主義な性格による失敗については、まさに今日の米国の民主主義が失敗していることにも同じようにあてはまるように思います。

 ナポレオンのプロジェクトの失敗は、後世同じように繰り返します。そうした試みが失敗したのは、帝国主義的な方法で民主主義を普及させようとすると「みんなのため」という民主主義の基本理念を実現できないからです。要するに他者を十分に理解してこなかったことに由来する問題です。米国は「他者」を理解することを非常に苦手としています。この問題はこの後にも話になると思うので示唆にとどめますが、(ギリシャとフランスの)二つの失敗は、それぞれ(の民主主義)が十分に普遍的なものではなかったということで説明されるでしょう。

さて2番目の問題について話しましょう。現代の民主主義についてです。今の民主主義の危機を考えると、二つの大きな問題があると言えます。

つづく


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思考のプリズム その2 [スズムシ日記]

國分さんの「思考のプリズム」に「ドイツの若い哲学者マルクス・ガブリエルと公開討論する機会があった」とある。ガブリエルの基調講演とそれに先立つ国分さんのガブリエルさんへの手紙などを朝日新聞デジタルからゲット(有料)したので転載したいと思う。長文だから、ぶつ切れで連載形式でいきます。

日々のニュースで当たり前のように政治や経済の危機が語られる今、民主主義は「危機」の解決に役に立つのか。もはや民主主義こそ問題なのではないか――。著書「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)がベストセラーになっているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが来日し、東京・築地の朝日新聞東京本社読者ホールで6月12日、哲学者の國分功一郎さんと対談した。「危機」の時代に、改めて歴史をさかのぼり、民主主義の原理を見直した議論では、「民主主義と国民国家は両立しない」「主権という考え方は怪しい」など、ラディカルな発言が飛び出した。

対談は、住民運動への参加経験などから議会中心の既存の民主主義観を批判してきた國分さんが事前に送った「手紙」による問題提起を受け、ガブリエル氏が講演する形でスタートした。

 通訳は斎藤幸平・大阪市立大学准教授、聞き手・司会は朝日新聞文化くらし報道部の高久潤記者が務めた。対談は、本の著者を招いて講演などをしてもらう「作家LIVE」(朝日新聞社主催)の一環で、会場には定員を大きく上回る約900人から応募があり、抽選で当選した約200人が来場。2時間半に及んだ当日の議論の全容を、2万5千字超で詳報する。

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國分さんからの手紙

 対談に先立ち、國分さんは事前にガブリエルさんに問題提起のため、民主主義をめぐる四つの質問を手紙で送っていた。ガブリエル氏の講演はこの質問を踏まえて行われた。

     

実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、どのように民主主義を構想すればよいでしょうか

立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか

主権に統治は可能でしょうか。主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか

現代政治が主権の限界に直面する一方で、主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか

     

 手紙の中で國分さんは、2013年に都の道路建設計画の見直しを求める住民運動に参加した自身の経験に触れ、「道路を建設するにあたって、建設現場に住む人びとからいかなる許可も取る必要がない」とし、「日本の行政には万能とも言うべき権力」がある、と指摘。近代の民主主義において、主権は「伝統的に立法権として定義されてきた」が、主権者である民衆が行政の決定に直接関わることができない中、それは民主的と言い得るか、と問題提起した。

 公文書改ざん問題でも改めて注目を集める行政権力の強大化は、国レベルでも当てはまる。國分さんは安倍政権が2015年、閣議決定日本国憲法第9条の解釈を変更したことに言及。その反対運動の中で注目された立憲主義を、「いかなる政治権力も制約を受けるという原則」と説明し、制約を受ける側である安倍政権が「そのルールの解釈を変更」したことを批判した。だが考えるべき問題はその先にある。では「憲法は民主主義的な権力をどこまで制約できるのか」と問いかけた。

 また英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票など世界政治の潮流にも触れ、「主権を求める動きが高まっている」と診断した上で、「主権(民主的な議会)による統治は可能か」「主権を求める動きが高まる状況をどう捉えればよいか」との質問も投げかけた。



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思考のプリズム [スズムシ日記]

見抜かれている無関心

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思考のプリズムは朝日新聞連載記事

若手哲学の気鋭 国分功一郎氏の思考の跡形。今回はオイラなどの大衆の本質を突いたもの。多少の疑義はあるが、概ねそうだよなって思う。でも国会前にデモする人々もちゃんといるぞ!

 

先日、ドイツの若い哲学者マルクス・ガブリエルと公開討論する機会があった。民主主義をテーマとした討論の中で私は、「いま日本では役人による公文書改ざんが問題になっているのだが、驚くべきことに人々はこれにほとんど怒っていない」と述べた。

 そのとき私の念頭にあったのは、哲学者ハンナ・アレントがその著書『全体主義の起原』のなかで、20世紀初頭に現れた大衆社会を分析して述べた言葉、大衆は何事をもすぐに信じるが同時に何事をも信じていない、であった。

 公文書の改ざんは未曽有の疑獄事件と関わっている。ウソにウソを重ねた関係者たちの矛盾点は既に暴かれている。会見して事情を説明すべき人物は国民の前に現れない。政権はただほとぼりが冷めるのを待つばかりだ。

 ところが、この事態を前にしても世論が怒りに震えることはない。どんなにありそうもないウソでも受け入れ、それがデタラメだと分かってもけろりとしている。アレントはそのような態度を指して、軽信とシニシズムの同居と呼んだ。何でもすぐに信じるが、確たる信念を何一つ持っていないから、騙(だま)されたと分かっても平気なのだ。

     *

 アレントは大衆社会の最大の特徴を、「自分の幸福への無関心」に見ている。私は最近、同書を読み直しながら今の日本社会を想起せざるを得なかった。確かに私たちはいま、自分たちの幸福に対して関心を持てなくなっているのではなかろうか。

 こう反論する人がいるかもしれない――。今の日本社会は、「自分さえよければよい」と思っている人ばかりではないか、と。もしそのような反論を思いついた人がいたならば、それこそ現代における幸福への無関心を如実に示す証拠であると言わねばならない。

 幸福には未来への見通しや理想が欠かせない。「自分さえよければよい」というのは「自分だけは災難を避けたい」という焦りの表現に過ぎない。だが、いま私たちはそうした焦りを幸福への関心と混同してしまうほどに混乱した社会を生きている。

 自分の幸福への関心は、自分たちの幸福への関心と切り離せない。だが、自分の幸福に関心がないのだから、自分たちのそれについて関心を持ちうるはずがない。だから、自分の生きる場が危機に晒(さら)されても、それに真剣に対応しようとしない。騙されてもシニシズムでやり過ごせる。

     *

 すべては、人が何らかの信ずる価値を持てずにいることに由来しているように思われる。何かを信じていないから、何でもすぐに信じてしまう。自分の幸福への無関心もおそらくそこに由来する。

 ガブリエルは討論の中で、ドイツ基本法の第1条が掲げる「人間の尊厳の不可侵」という価値について堂々と語った。私はそのことをとてもうらやましく思った。日本の憲法もまた「基本的人権の尊重」をその原理の一つとして掲げている。しかし私はそれを彼のように堂々と語ることはできない。その価値は日本では少しも信じられていないからである。

 現政権はこれまで、どんな批判に対しても知らんぷりをすることでやり過ごしてきた。歴代の政権であれば「さすがにそれはマズい」と考えるようなことも平気で実現している。その最大の例は2014年の閣議決定による憲法解釈の変更だ。

 政権の知らんぷりが通用するのは、私たちが「これだけは譲れない」という何らかの価値を信じることができずにいるからだろう。政権はそのことを見抜いているから、このような事態に陥っても少しも焦っていないのである。


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福岡伸一の動的平衡 2018・7・5 [スズムシ日記]

“科学者”フェルメールの願い

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秋から冬にかけて、フェルメールの一大展覧会が日本で開催される。私も今からわくわくしている。フェルメールの絵のモチーフは一貫している。静かな部屋の左手の窓から光が差し込み、室内の女性を柔らかく照らし出す。

 「なぜ彼は飽きもせず同じ構図で絵をえがいたのでしょう?」。こんな風に聞かれたことがある。「その答えは簡単です。フェルメールは画家というより科学者的なマインドの持ち主だった。実験を繰り返し、ながれゆく時間、移ろいゆく光の一瞬をとどめたいと思った。写真がまだない時代のフォトグラファーを目指したんです」。質問者がなおも食い下がる。「どうしてそこまで時間をとどめたいと願ったのですか?」「時代の潮流ですね。17世紀、ガリレオは望遠鏡で、レーウェンフックは顕微鏡で世界を見極めようとした。ニュートンやライプニッツは物体の遠藤の瞬間を知るために微分法を生み出した。彼らの願いはみんな一緒。“時間よ、止まれ”です」

 こうして近代科学は時間を止め、一枚一枚精密な静止画を得た。そしてパラパラ漫画のように連続して動かして自然を語った。AI的世界。しかしそれはほんとうの自然とは異なる人工的な「見立て」にすぎない。でもこれはまた別の問題。未来の科学の課題でもある。いま一度、じっくりフェルメールを見つめ考えてみたい。(生物学者)


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読書日記  明快な幸福への見取り図 [スズムシ日記]

「読書日記」は毎日新聞夕刊連載もの。「恩讐の彼方」なんていう反故を思い出した。今回の筆者である上田紀行さんの対教授体験は惚れたという愛に近いものがある。敬愛といったら大げさか。だって、出会わなければ別の人生だったって言うのだから。

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僕の場合の大学体験では、ほとんど学生運動ぽいことをしていてまともに授業を受けなかった。苦しい家庭で多分借金をして入学金を捻出してくれた親には悪いと思いのだが、今更。両親はもういない。

唯一思い出の教授は剣持勇。プロダクトデザイナーの先駆け。丸い灰皿が有名だ。中が金属で回りが色鮮やかな黄色や赤のプラスチック。大分もうかったのに違いない。その剣持が外遊してきて、授業でスライドを映写する。勿論自慢だ。ASA400とかいう高感度のカラーフィルムが登場して間もない頃だから、夜間の風景もバッチリ写っていた。

それからやおらピストルを懐から取り出し、ローソクに火を付けてお前持ってろって言う。剣持との応答はこれっきり。20mも離れた所に立っていると、ピストルの引き金を剣持が引く。炎が消えた。空気鉄砲だった。一同目を丸くして、ハハ~剣持さま、流石。

こんな具合のことを今でも覚えている。

 さて本題。上田氏は文化人類学者。東工大リベラルアーツ研究教育院長。見田宗介になる著作「現代社会はどこに向かうか −高原の見晴らしを切り開くこと−」を読み解いている。現代社会は先を見通すことが困難な転換期にある。われわれはどこへ向かうか。根源的な問いに挑む。とある。それでは上田さんの見田体験を紐解こう。

 

 あの出会いがなければ全然別の人生だった。誰でもそんな経験があるだろう。それも人生大ピンチの時に。

 大学に入ったものの事故の葛藤に疲れ果て、留年しカウンセラーにも通い始めたぼくは妙なゼミに出会った。人間、社会、哲学、異文化、とてつもなく広い領域から人間の解放を論じるという。そして何か「アブナイ」ゼミには一筋縄ではいかないヘンな学生たちが集結していた。

 ゼミを主導する教員が学生に輪をかけてヘンだった。素晴らしい著作が何冊もある。頭がものすごくいい。どんな話でもたちどころに隠されている論点を見つけ出す。しかしゼミには毎回3040分遅れてくるし、着ている服は毎日カーキ色のシャツとジーパン。異常に若く見えて、話し方も何かサイボーグじみている。ゼミ合宿は発表の他に「人間の隠された次元に気づく」ワークがてんこもり。他のゼミが粛々と文献購読とかをしている隣で、こちらは「ダンシング・メディテーション」でみんなで踊り狂っていたりする。シュールだった。

 ぼくたちは彼の大ファンだったけど、一方で彼の欠けているところを話の種によく盛り上がった。そのくせ他の学生から彼が批判されたりすると、むきになって彼を弁護したりした。教員は魅力がありつつ貶されてなんぼだ。学生はそうして自分の立ち位置を発見し、そして仲間ができる。

 その教員、見田宗介氏が80歳にして新著を出した。「現代社会はどこに向かうか」。そのものズバリのタイトルの本は、新書としても薄い本だが、そのぶん極めて明快に人間社会の過去・現在・未来の見取り図が描かれている。

 現代は「軸の時代」から続く<無限性>の終焉期である。「軸の時代」とは仏教やキリスト教といった普遍思想が生まれた時代で、人々が小共同体から外部への無限性へと、貨幣経済へと投げ出された時代であった。そこから人類は2000年以上にわたって<無限性>の発展を目指し、自然を切り開き、人口、生産を増やし、貨幣を集積してきた。しかし既に地球の容量は尽き、現代は明らかに<有限性>の時代への転換期だ。

 その意識は若い世代に顕著だ。<無限性>の時代の年長世代は、発展する「未来」のために現在を我慢する。しかしもはや先進国の若者たちは未来のために現在を犠牲にしない。シンプルじゃライフスタイルの中で、友人と触れあい、自然と触れあい、豊かな会話を楽しみ、お金のかからない喜びを得ている。「未来」のために、「現在」を疎外するのではなく、今ここを豊かに生きる時代が到来している。

見田氏は言う。経済競争の強迫から解放された人間は、アートと文学と学術の自由を、歌とデザインとスポーツと冒険を楽しむ。旅、友情、恋愛、こどもたちとの交歓を楽しむ。太陽や風や海との交歓を楽しむ。それらは資源の搾取も環境汚染も必要としない。永続する幸福だ。そこへの展開の基軸は「幸福感受性」の奪還であり再生である。

素敵な世界だ。「幸福感受性」が変われば、誰もが必要以上に貨幣を貯め込まず、社会に正常な分配が生まれ、相乗的に好循環が生まれ、それが「高原の見晴らし」を切り開いていく。

かつての見田氏への批判の多くは社会変革の可能性にあまりにも楽観的すぎるというものだった。この本でも現実の貧困問題もテロも人間の邪悪さもあまり語られていない。しかし大きな幸福への見取り図を持つことで、ぼくたちは現実に立ち向かう大きな勇気を得て、一歩前へと踏み出すことができる。40年前のぼくがそうであったように。

 

スズムシ:

働き方改革法案が今国会で通過しそうだ。超資本はこれでもかと労働を強化すようとする。それを政府もまた後押しする。文科省の課長が息子の入学と引き換えに東京医科大学に便宜を図って何千万円もの融資を決定する。なんともえけつないそしてむごたらしいほどのモラルの欠如だ。教育を司る御大が!子どもたちのなんて言って申し開きをするのだ。道徳が特別の教科となったばっかりだ。美しいか国を愛するとかの観念善がまかり通る。見田さんや上田さんのような超楽観が大手をふるようになるのはいつの日だろうか。カネ、カネ。と言わなくてもすむ、正常な分配の贈与の観念善が普遍となりますように。


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子どもの絵を背負う [スズムシ日記]

『水節』は毎日新聞連載の時評。同社編集委員の中村秀明氏の連載だ。僕の大事なこどもが主人公の記事なのだ。だから、みんなにお知らせしよう。子どもが大切だと思う大人が未だにいるって事だ!

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宮田運輸(大阪府高槻市)の4代目になったばかりの宮田博文さん(47)は力んでいた。「父親を超えなくてはいけない」と考えた。業績の目標を掲げ、どんどん仕事を取った。

1年あまりたった2013830日が忘れられな日になる。会社のトラックがスクーターと接触し43歳の男性が亡くなった。病院に駆けつけ、霊安室で頭を下げた。

男性の父親が静かに言った。「どっちがいいか悪いかはわからへんけど、たった今、息子は命を落とした。その息子に小学校4年になる女の子があるということだけはわかっておいてくれんか」

運転していたのは管理職。人繰りがつかない中、配送依頼を受け急きょハンドルを握った。被害者と同じ43歳、娘が2人いる。後を継いだ焦りや不安から社員に無理をさせていたのだと気づいた。

宮田さんはトラックが大好きだった。幼いころは親に隠れ、会社の深夜便に乗せてもらっていた。そのトラックが人の命を奪った。しかも誰よりもトラック好きな自分の弱さが招いたことだった。

会社を続けるか悩んだ。何を大切にしたいかを問い直した。そして「一つの会社を守るより一人一人を生かす。事故をなくすために大好きなトラックを生かそう」という思いに至ったという。

子どもが描いた絵をトラックの後部ドアや荷台に大きくラッピングする取り組みがこうして生まれた。絵には「気をつけて、かえってきてね」という言葉も添えてある。たったそれだけのことが多くのことを変えた。

追い越す車の人が笑顔で手を振る。高速道路のサービスエリアで記念写真を撮られる。無理な割り込みや車間を詰められることは減った。「注目されている」「関心を持たれている」とう思いから、絵を背負う運転手はていねいな運転を心がけ、車はいつもピカピカにしている。

宮田運輸が始めた取り組みは約70社に広がり、今、200台以上が子どもの絵を背負って全国を走る。宮田さんは「だれもが優しさとか、良心とかを持っている。それがわきあがってくる場と機会をどう作るか。人の心を信じる経営を続けたい」と語る。

今年、あの死亡事故の遺族から年賀状が届いた。女の子は元気に中学校に通っているそうだ。そして、絵を背負うトラックの広がりを「息子の残してくれたこと」と書いてあり、「うれしい」「感謝しています」とあった。宮田さんは取り組みを世界に広げたいと思っている。201874

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やまのかいしゃ [スズムシ日記]

毎日新聞書評欄(630日付)。僕の大好きな堀江敏幸さんになる書評があった。堀江さんの文章は清冽と言うのかな、品がいいと僕は常々思っている。最近読んだのは『おぱらばん』。帯には「遠い記憶の郊外へ。磨き抜かれた文体で描かれた魂を震わせる15の物語」とある。未読の方は是非挑戦しておくれ。

このたびの書評も僕の心に及ぶ(書評文中にある)文章がちりばめられている。だから、漏れなく抽出しよう。

書評の相手は『やまのかいしゃ』(スズキコージ作、かたやまけん絵。福音館・1620円)

 

文と絵。どちらも達人のなせる仕事だが、ここではスズキコージが言葉を、かたやまけん(片山健)が絵を担当し、読み手の心に及ぶ影響を数倍にしてみせた

絵本という枠に収まらない一書である。初出は『母の友』一九九六年九月号。三十年以上前の世界が、いまも鮮度と衝撃をもってこちらに迫る。ただし、私が『やまのかいしゃ』に本当の意味で出会ったのは、一九九一年に架空社という存在するのかしないのかわからない、つまりはまことに好もしい名の出版社から出た版で、刊行後二、三年すぎた頃だった。

 描かれていたのは、当時の、そしていまの私の頭のなかにひろがる現実そのもだ。あまりに切実な話だったので、自著の一部で深い共感を表明したことさえある、世紀が変わって手元に届けられたのは、初掲載した福音館書店からの復刻だ。それでも四半世紀は過ぎている。

 主人公の名は、ほげたさん。よしこさんという名の奥さんがいて、子どももいる。朝が大の苦手で、なかなか起きられない。物語のなかのその日も、家を出たのは昼過ぎだった。「えきまでのみちを、はやめにペタペタとあるきながら、はをみがき、かおを、ようふくのそでで、みがいて」いく、この自然体の過激さを許容する空気が、はじめからただよっている。片山健はほげたさんに黄色い服を着せ、駅舎に「あのまち」という驚くべき名を与えたばかりか時計から針を奪って時間をなくしている。電車はがら空きである。奥さんに急いで握ってもらったおむすびを食べるほげたさんの足もとは、トイレのスリッパだ。「はやめにペタペタ」。このリズムが頭からはなれない。おむすびに腕時計を入れてしまった奥さんもたいした人である。午後一時。あのまち発の電車はなぜかビル街ではなく、緑豊かな山のなかに入っていく。逆方向に乗ってしまったのだ。おまけに鞄も忘れる。よく見えないぼんやりした世界を、ほげたさんは受け入れる。片山健が終点に与えたのは「やまのあなた」駅。そこから山にのぼっていく途中で、同僚のほいくさんに出会い、ふたりで「やまのかいしゃ」に行くことにする。頂上を、会社だと見なすのだ。眺めもいいし空気もいい。ならば、ここで仕事をすればいいではないか。そんなわけで、ほげたさんはほいくさんが持っていた「むせんでんわ」で会社の面々に連絡をする。

 脱力しながらもリズムのあるスズキコージの、「はやめにペタペタ」した言葉の拍を、片山健はひとつも漏らさず引き受ける。いろんな動物が、どこかで見たことのある少女が、あそび心にあふれた文字が、いたるところに隠されている。ほげたさんとほいくさんの出会いも、その隠されたコードのなかでは、まったく自然な出来事なのだ道徳的な常識をずんずん破って、日常のなかに、あるはずのない光景を生み出すこと。『やまのかいしゃ』の凄みはそこにある

 山の上に会社があったわけではない。ほいくさんは山の中の藁葺きの家に住んでいて、街の会社に出て行く人だし、ほげたさんにもほいくさんにも、地に足の付いた日常がある。そして、足にトイレのスリッパを履いた日常をも受け入れるだけの想像力に恵まれている彼らを動かしているのは、大人も子どもも関係の無い、存在としての心の寛さなのである

 文を読み、絵に見入る。絵から離れて文を読み返す。文だけを追い、絵だけを眺める。どれも贅沢な体験だ。ほげたさんとほいくさんは、まだやまのかいしゃにいるらしい。もちろん、読者であるこのわたしもまた

 

是非紀伊國屋に足を運んで直接手に取って、贅沢な時間を味わいつくして、店員さんにクレームつけられたら、それから、カネを出して買い求めようと思う。(スズムシ)


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「写生」の妙味 [スズムシ日記]

朝日俳壇・歌壇(630日付)に青木亮人さん(愛媛大准教授)の『俳句時評』が掲載されていた。「写生」は子どもたちへの図工では、リアリズム(そっくり)がいいとされている。(だから絵が嫌いになる子どもも多い)でも、俳句では意味がやや趣を異にするようだ。その違いが面白ろくもあったので、紹介しよう。

 

「写生」は自由闊達の世界、と喝破した俳人がいた。名は波多野爽波(そうは)(192191)、「ホトトギス」で修行後に「青」主宰となった俳人である。

 焼藷(いも)の破片(かけら)や体を伝い落つ

 炬燵出て歩いてゆけば嵐山

 不思議な句だ。焼藷や嵐山らしいイメージにそぐわない体験を詠んだためだろう。「写生」は単なる観察ではなく、私たちの美意識を揺るがす現実の意外な体験に驚く感性であり、予定調和から逃れ、自由になろうとする認識だった。

爽波が激賞した辻桃子の句を見てみよう。

 虚子の忌の大浴場に泳ぐなり

 高浜虚子の忌日に不謹慎な、と眉をひそめてはいけない。この意外さが「写生」の妙味なのである。辻は現在「童子」主宰で、同5月号に次の句を発表した。

 餅間ひ(あい)の焼葱むくやホッと湯気

 正月の馳走に飽き、日常の食に「ホッと」したというユーモラスな発見がゆかしい「餅間ひ」(正月に餅を食べた後、小正月までの餅のない合間)と絡み合い、日常の小事を新鮮に浮き上がらせている。

 常識や習慣、先入観に支えられた毎日の中、私たちは様々な出来事をやり過ごしている。普段は当然と思いこみ、疑問を感じない体験の一つ一つに驚き、日常の驚異に目を見開くのが「写生」なのだ。

 波多野爽波の「青」で修行し、「秋草」主宰となった山口明男は「俳句」6月に最新作を発表している。例えば次の句は、この世にあることの不思議を小さな日常に発見した、闊達な「写生」句だ。

 籐椅子に霧吹きのころがってゐる。


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平和の詩「生きる」 [スズムシ日記]

沖縄慰霊の日(6月23日)の全戦没者追悼式で浦添市の港川中学校3年生の相良倫子さんが「平和の詩」を朗読した。心にしみる詩だ。


私は、生きている。

マントルの熱を伝える大


地を踏みしめ、


心地よい湿気を孕んだ風


を全身に受け、


草の匂いを鼻孔に感じ、


遠くから聞こえてくる潮


騒に耳を傾けて。


 


私は今、生きている。


 


私の生きているこの島は、


何と美しい島だろう。


青く輝く海、


岩に打ち寄せしぶきを上


げて光る波、


山羊の嘶き、


小川のせせらぎ、


畑に続く小道、


萌え出づる山の緑、


優しい三線の響き、


照りつける太陽の光。


 


私はなんと美しい島に、


生まれ育ったのだろう。


 


ありったけの私の感覚器


で、感受性で、


島を感じる。心がじわり


と熱くなる。


 


私はこの瞬間を、生きて


いる。


 


この瞬間の素晴らしさが


この瞬間の愛おしさが


今と言う安らぎとなり


私の中に広がりゆく。


 


たまらなく込み上げるこ


の気持ちを


どう表現しよう。


大切な今よ


かけがえのない今よ


 


私の生きる、この今よ。


 


七十三年前、


私の愛する島が、死の島


と化したあの日。


小鳥のさえずりは、恐怖


の悲鳴と変わった。


優しく響く三線は、爆撃


の轟に消えた。


青く広がる大空は、鉄の


雨に見えなくなった。


草の匂いは死臭で濁り、


光り輝いていた海の水面


は、


戦艦で埋め尽くされた。


火炎放射器から吹き出す


炎、幼子の泣き声、


燃えつくされた民家、火


薬の匂い。


着弾に揺れる大地。血に


染まった海。


魑魅魍魎の如く、姿を変


えた人々。


阿鼻叫喚の壮絶な戦の記


憶。


 


みんな、生きていたのだ。


私と何も変わらない、


懸命に生きる命だったの


だ。


彼らの人生を、それぞれ


の未来を。


疑うことなく、思い描い


ていたんだ。


家族がいて、仲間がいて、


恋人がいた。


仕事があった。生きがい


があった。


日々の小さな幸せを喜ん


だ。手をとり合って生き


てきた。私と同じ、人間


だった。


それなのに。


壊されて、奪われた。


生きた時代が違う。ただ、


それだけで。


無辜の命を、あたり前に


生きていた、あの日々を。


 


摩文仁の丘。眼下に広が


る穏やかな海。


悲しくて、忘れることの


できない、この島の全て。


私は手を強く握り、誓う。


奪われた命に想いを馳せ


て、


心から、誓う。


 


私が生きている限り、


こんなにもたくさんの命


を犠牲にした戦争を、絶


対に許さないことを。


もう二度と過去を未来に


しないこと。


全ての人間が、国境を越


え、人種を越え、宗教を


越え、あらゆる利害を越


えて、平和である世界を


目指すこと。


生きる事、命を大切にで


きることを、


誰からも侵されない世界


を創ること。


平和を創造する努力を、


厭わないことを。


 


あなたも、感じるだろう。


この島の美しさを。


あなたも、知っているだ


ろう。


この島の悲しみを。


そして、あなたも、


私と同じこの瞬間(とき)



一緒に生きているのだ。


 


今を、一緒に、生きている


のだ。


 


だから、きっと分かるは


ずなんだ。


戦争の無意味を。本当


の平和を。


頭じゃなくて、その心で。


戦力という愚かな力を持


つことで、


得られる平和など、本当


は無いことを。


平和とは、あたり前に生


きること。


その命を精一杯輝かせて


生きることだということ


を。


 


私は、今生きている。


みんなと一緒に。


そして、これからも生き


ていく。


一日一日を大切に。


平和を想って。平和を祈


って。


なぜなら、未来は、


この瞬間の延長線上にあ


るのだから。


つまり、未来は、今なん


だ。


 


大好きな、私の島。


誇り高き、みんなの島。


そして、この島に生きる、


すべての命。


私と共に今を生きる、私


の友。私の家族。


 


これからも、共に生きて


ゆこう。


この青に囲まれた美しい


故郷から。


真の平和を発進しよう。


一人一人が立ち上がっ


て、


みんなで未来を歩んでい


こう。


 


摩文仁の丘の風に吹か


れ、


私の命が鳴っている。


過去と現在、未来の共鳴。


鎮魂歌よ届け。悲しみの


過去に。


命よ響け。生きゆく未来


に。


私は今を、生きていく。









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カラスの仕業? [スズムシ日記]

愛住公園の脇道をテクテク歩行。CCAAへの途上。下ばっかり見ながらの歩み。

それで見つけた よ。

一葉の羽根。

きっとカラスの追いかけられて抜けた鳩の羽根に違いない。骸はなかったから、きっと野良猫がくわえて

行ったのだろう。こそこそ盗人の肢体が思い浮かぶ。

晋太郎が会っていない言っていないと顔を引きつらせて言い訳している肢体が見苦しい!


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ポスター [スズムシ日記]

まったく久しぶりの投稿です

老人になってアップするのが億劫になっているのも事実ですね。でも世界から見捨てられるのも悔しい気分なので

たまに アップします

今回は都営新宿線曙橋構内で発見したポスターです。タイトルは「テロ防止」。ちょっといいんじゃないかと思ったので。みんなにしらせたくなりました。とさ。スズムシ

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内田樹の研究室から 5月3日付神奈川新聞掲載 [スズムシ日記]

内田君もっともっと遠吠えしてくださいな。ぼくらの代弁者としてです。朝日も毎日も最早樹君を敬遠してるのだろうね。憲法記念日に、樹君の意見を掲載しなさい。神奈川新聞というローカルなメディアが樹君へラブコールを送った図が愉快だ。そいうえば東京のローカル紙「東京新聞」もなかなか健闘している。近頃は新聞を取らない方が増えたようだ。スマホでちゃんと見られるのだね。でも、インクの匂いの新聞紙がいいんだよ。一枚一枚めくっていく輪転機の爪の後が破れとなっているのがね。味わいがあるよ。それを再利用して、袋にして焼き芋をいれたり、枇杷の袋かけにつかったり、ね。そうそう、オイラのこども時代は落とし紙としてつかったものだね。よ〜くもんで、軟らかくしてね。樹君の最近の対談本。よんでみなくちゃなるまい。みんな未読であります。

それでは久しぶりに樹君の健闘ぶりを紹介しましょう。「属国日本論」をです。

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2017.05.03

神奈川新聞のインタビュー

憲法記念日に神奈川新聞にロングインタビューが掲載された。いつもの話ではあるけれど、これを愚直に繰り返す以外に悪政を食い止める方途を思いつかない。

反骨は立ち上がる

いま日本で起きている絶望的なまでの「公人の劣化」は何に由来するのか。結論から言ってしまえば「日本はアメリカの属国でありながら、日本人がその事実を否認している」という事実に由来する。日本社会に蔓延している「異常な事態」の多くはそれによって説明可能である。

ニーチェによれば、弱者であるがゆえに欲望の実現を阻まれた者が、その不能と断念を、あたかもおのれの意思に基づく主体的な決断であるかのようにふるまうとき、人は「奴隷」になる。「主人の眼でものを見るようになった奴隷」が真の奴隷である。彼には自由人になるチャンスが訪れないからである。日本はアメリカの属国であり、国家主権を損なわれているが、その事実を他国による強制ではなく、「おのれの意思に基づく主体的な決断」であるかのように思いなすことでみずからを「真の属国」という地位に釘付けにしている。
日本が属国なのだと明確に認識したのは、鳩山由紀夫元首相が2009年に米軍普天間飛行場の移設を巡り「最低でも県外」と発言した際の政治と社会の反応を見たときだ。
鳩山氏は軍略上の重要性を失った日本国内の米軍基地を移転し、日本固有の国土の回復を求めただけである。首相として当然の主張をしたに過ぎない。だが、これに対して外務省も防衛省もメディアも猛然たる攻撃を加えた。その理由は「アメリカの『信頼』を損なうような人間に日本は委ねられない」というものだった。ニーチェの「奴隷」定義を援用するならば、宗主国の利益を優先的に配慮することが自国の国益を最大化する道だと信じる人々のことを「属国民」と呼ぶのである。

北朝鮮を巡る情勢が緊迫している。米国が北朝鮮に対し先制攻撃した場合、日本国内にミサイルが飛来して国民が死傷するリスクはある。だが、これを「アメリカがする戦争になぜ日本が巻き込まれなければならないのか」と憤る声はほとんど聞かれない。主権国家であれば、国土と国民を守ることをまず第一に考えるはずだが、日本政府は北東アジアの危機を高めているアメリカに一方的な支持を与えて、米国に軍事的挑発の自制を求めるという主権国家なら当然なすべきことをしていない。

「対米従属を通じて対米自立を達成する」という国家戦略は敗戦後の日本にとってそれ以外に選択肢のないものだった。ことの適否を争う余裕はないほど日本はひどい負け方をしたのである。そして、この国家戦略はその時点では合理的なものだった。徹底的な対米従属の成果として、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で国際法上の戦争状態を終わらせ、国家主権を回復した。68年には小笠原諸島、そして72年には沖縄の施政権が返還された。戦後27年間は「対米従属」は「対米自立」の果実を定期的にもたらしたのである。
だが、この成功体験に居ついたせいで、日本の政官は以後対米従属を自己目的化し、それがどのような成果をもたらすかを吟味する習慣を失ってしまった。沖縄返還以後45年で対米自立の成果はゼロである。米軍基地はそのまま国土を占拠し続け、基地を「治外法権」とする地位協定も改定されず、首都上空には米軍が管轄する横田空域が広がったままである。主権回復・国土回復という基本的な要求を日本は忘れたようである。
それどころか、対米自立が果たされないのは「対米従属が足りない」からだという倒錯的な思考にはまり込んで、「年次要望改革書」や日米合同委員会を通じて、アメリカから通告されるすべての要求を丸のみすることが国策「そのもの」になった。郵政民営化、労働者派遣法の改定、原発再稼働、TPP、防衛機密法の制定、PKOでの武器使用制限の見直しなど、国論を二分した政策は全部アメリカの要求が実現された。そして、わが国の国益よりもアメリカの指示の実現を優先する政権にアメリカは「同盟者」として高い評価を与え、それが属国政権の安定をもたらしている。

日本人は心のどこかで「属国であること」を深く恥じ、「主権の回復」を願っている。けれども、それは口に出されることがない。だから、その抑圧された屈辱感は病的な症候として現れる。安倍政権とその支持者たちの「かつて主権国家であった大日本帝国」に対する激しいノスタルジーは「主権のない戦後日本国」に対する屈辱感の裏返しである。けれども主権回復のための戦いを始めるためには、まず「日本は主権国家でなく、属国だ」という事実を受け入れるところから始めなければならないが、それはできない。痛苦な現実から目をそらしながら少しでも屈辱感を解除したいと思えば、「大日本帝国」の主権的なふるまいのうち「今でもアメリカが許諾してくれそうなもの」だけを選り出して、政策的に実現することくらいしかできることがない。それが対外的には韓国や中国に対する敵意や軽侮の表明であり、国内における人権の抑圧、言論の自由や集会結社の自由の制約である。だが、日本が隣国との敵対関係を加熱させることには宗主国アメリカから「いい加減にしろ」という制止が入った。米日中韓の連携強化は、トランプ政権のアメリカにとっても東アジア戦略上の急務だからである。やむなく、日本の指導層の抱え込んでいる「主権国家でないことの抑圧された屈辱感」は日本国民に「主権者でないことの屈辱感」を与えるというかたちで病的に解消されることになった
それが特定秘密保護法、集団的自衛権行使の閣議決定、安保法制、共謀罪と続く、一連の「人権剥奪」政策を駆動している心理である。

安倍政権の改憲への熱情もそれによって理解できる。憲法に底流する国民主権のアイディアはアメリカの統治理念そのものである。それを否定することで、対米屈辱は部分的に解消できる。そして政権担当者は「国民に対してだけは主権的にふるまう」ことで国家主権を持たない国の統治者であるストレスを部分的に解消できる。
自民党改憲草案は近代市民社会原理を全否定し、剥き出しの独裁政権を志向する病的な政治文書だが、それが全篇を通じて「決してアメリカを怒らせないような仕方で対米屈辱感を解消する」というねじれた政治目標に奉仕しているのだと思えば、理解できないことはない。

日本人に対して、私から言いたいことは「現実を直視しよう」ということに尽きる。国防についても、外交についても、エネルギーについても、食糧についても、基幹的な政策について日本は自己決定権を持ってないこと、国土を外国の軍隊に占拠されており、この状態がおそらく永久に続くこと、明治維新以来の悲願であったはずの「不平等条約の解消」という主権国家の基礎的目標を政治家たちが忘れたふりをしていること、海外の政治学者たちは特段の悪意もなく、日常的に「日本はアメリカの属国である」という前提で国際関係を論じていること、そういう事実を直視するところからしか話は始まらない。
この否定的現実をまず受け入れる。その上で、どうやって国家主権を回復するのか、衆知を集めてその手立てを考えてゆく。鳩山一郎や石橋湛山や吉田茂が国家的急務としていた問題をもう一度取り上げるということである。

日本が属国であることも、その事実を否定するために異常な人権抑圧が行われていることは沖縄や福島へ行けばわかる。現場に行けば政治家や官僚やメディアがどのように隠蔽しようとも痛ましい現実が露呈する。まずそこに立つこと。幻想から目を覚ますこと。それが日本国民のしなければならないことである。

日本ははっきり末期的局面にある。これから急激な人口減を迎え、生産年齢人口が激減し、経済活動は活気を失い、国際社会におけるプレゼンスも衰える。日本はこれから長期にわたる「後退戦」を戦わなければならない。
後退戦の要諦は、ひとりも脱落させず、仲間を守り、手持ちの有限の資源をできるだけ温存して、次世代に手渡すことにある。後退戦局面で、「起死回生の突撃」のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である。残念ながら、今の日本の政治指導層はこの「起死回生・一発大逆転」の夢を見ている。五輪だの万博だのカジノだのリニアだのというのは「家財一式を質に入れて賭場に向かう」ようなものである。後退戦において絶対に採用してはならないプランである。けれども、今の日本にはこの「起死回生の大ばくち」以外にはプランBもCもない。国として生き残るための代替案の案出のために知恵を絞ろうというひとが政官財の要路のどこにもいない。
だがそうした危機的現状にあって、冷静なまなざしで現実を眺め、自分たちが生き残るために、自分たちが受け継ぐはずの国民資源を今ここで食い散らすことに対して「ノー」を告げる人たちが若い世代からきっと出てくると私は思っている。
日本の人口はまだ1億2千万人ある。人口減は止められないが、それでもフランスやドイツよりははるかに多い人口をしばらくは維持できる。指導層の劣化は目を覆わんばかりだけれど、医療や教育や司法や行政の現場では、いまも多くの専門家が、専門家としての矜持を保って、私たちの集団を支えるために日々命を削るような働きをしている。彼らを支えなければならない。

後退戦の戦い方を私たちは知らない。経験がないからだ。けれども、困難な状況を生き延び、手持ちの資源を少しでも損なうことなく次世代の日本人に伝えるという仕事について私たちは好き嫌いを言える立場にはない。それは国民国家のメンバーの逃れることのできぬ義務だからである。


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魂の秘境から 朝日新聞 [スズムシ日記]

 水俣の苦しみを生涯にわたって追い続けている石牟礼道子さんの連載エッセイだ。苦海浄土に通ずる魂の秘境は熊本城の古の言い伝え。あの大地震で僅かの石組が城を支え続けている軽業状態はまさに奇跡だ。先人の堅牢な仕業に敬服するばかりだ。機械もない時代にだ。

 道子さんのエッセイを取り出そう。


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石の神 熊本城に宿る、不死の年月

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幼いころ、この世で一番えらいのは「セイショコさま」という神様だと思っていた。わたしを膝(ひざ)にのせて焼酎をだいぶ聞こし召した父が、この神様の名を口にするときにはやおら威儀を正すのである。

 熊本は水俣で、道普請(道路工事)を請け負う石屋であった。日が暮れて夕餉(ゆうげ)が済めば、若い職人たちも一緒に、だれやみ(晩酌)の会となる。なめらかになった口で、道路の基礎に埋める根石はどの山から切り出すのが上等か、などといつもの石談議が始まる。

 あの山奥の石は間違いないが、算盤(そろばん)が合わぬ。そんなことを言う人があれば、父は憤然とちょこ(猪口)を置き、痩せた背筋をぴんと伸ばす。

 「銭(ぜん)のなんのち言うては、セイショコさまに申しわけの立たぬことぞ」

 まるきり神仏を畏(おそ)れ敬う口ぶりであった。この石の神様が、加藤清正公(セイショコ)という人間の名を持つとやがて知ったとき、なんとも不思議な思いをした。

 算盤づくとはほど遠かった家業は、わたしが小学校に上がってまもなく破産。「さしょうさい(差し押さえ)」という、子どもの耳には化け物めいて聞こえるものがやって来て、家財まるごと呑(の)み込んでいってしまうのである。

 父に連れられて、セイショコさまが築いたという熊本城を訪れたのは、そんな騒動の前のことだったろうか。我が神様のつくりなはった日本一の石垣を、娘に自慢するような気持ちだったに違いない。

 もう夢のようにも思える記憶のなかで、父は苔(こけ)の模様をうかせた石垣に手を添えて、「石の歳(とし)ば幾(いく)つち思うか」と聞くのである。きょとんとするわたしに「石どもは年月の塊ぞ。年月というものは死なずに、ほれ、道子のそばで息をしとる」。わたしはなんだか途方もない、寄る辺ないような気持ちになり、石の粉でざらざらにすり切れた父の手にすがりついた。

     *

 1年前の熊本地震。セイショコさまの熊本城は瓦や石垣が崩れ落ち、土煙に包まれたように見えたという。その揺れが来たとき、わたしは熊本市の療養先のベッドにいた。これはもう死ぬなあと思った。枕で顔を覆った。助かりたいというのではない。せめて顔に傷がない状態で発見されたいと願ったのだった。

 幸い、施設のヘルパーさんたちに助け出され、運ばれた先の病院の方々にもお世話になったおかげで、いまこうして生きている。

 「セイショコさんが築いた石垣は、あとの時代に積んだ部分より、被害が少なかったそうですよ」。わたしの石への執着を知る人が、そんなことを教えてくれた。父に伝えたら、何と言うだろう。何を分かりきったことを、と渋面をつくりそうな気もする。

     *

 そういえば、薩摩に近い山里に父が道を通し、その渡り初めのお供をしたことがあった。道の石積みに沿うようにして野の花が咲き、石蕗(つわぶき)の黄色い花頸(くび)に暮れかけた陽(ひ)の色が残っていた。

 「花の道のできやした。さあ、道に足ば下ろしてくだはりませ」

 父がそう声をかけても、山里の人たちは尻込みして動かない。神さまの通りよらす前に渡っては恐れ多いと、手を合わせる。その姿は道の石積みを拝むようにも、野辺の花を拝むようにも見えた。父は感じ入った様子で、「石の中でも花の咲くとぞ」とつぶやくのだった。    

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福岡伸一の動的平衡 [スズムシ日記]


朝日新聞週一の連載エッセイ。27日付エッセイは老人が主題。おいらもれっきとした老人。福岡さんの言いようだとジジイだ。何か文句あるか!でも、福岡さんが取り出したのはジジイになった石原都知事の失言。でも昨今の石原はジジイになって哀れな行状をさらしているじゃないですか。じゃ行ってみましょう。


ジジイとババアの存在が


「文明がもたらしたもっともあしき有害なものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪ですって」とかつて発言したのは、石原慎太郎元都知事。当然のことながら大きな反発を引き起こし、女性グループによる訴訟に発展した。裁判所は発言を不用意としたものの、名誉毀損とまでは認めなかった。


 オランウータンやアカゲザルには更年期があり、シャチやクジラの一部には閉経後も生きる種がある。とはいえ、生殖期間が終わった後、30年にわたる長き「老後」(オスを含めて)が存在する生物は確かにヒトだけ。しかしこれは決して無駄でも罪でもない。進化史上、有利だったからこそその特性が保存されたと考えなくてはならないからだ。


 その有利さとは何だったのか。おそらくは、次の世代が子育てをするのを手伝い、経験や知恵・知識を、————遺伝子とは別のかたちで————、手渡すことが、ヒトが生き延びる上で欠くことのできない価値をもっていたのだ。


 つまり、石原(敬称がついていたがおいらはとるぞ)の発言はむしろ逆で、ババア及びジジイの存在がもたらしたものこそが文明だったのである。そして問題の所在は、3・11以降、その過度の発展が、ブーメランのごとく、自らの存在を脅かすまでにリベンジを開始してきたところにある。真の知恵が試される時がきた。



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