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ウンベルト・エコーの世界文明講義 [スズムシ日記]

毎日新聞 今週の本棚(1月6日付) には『ウンベルト・エコーの世界文明講義』木村凌二氏による書評が掲載されていた。4968円もするのだから大部のものだろう。書評の内容をみると、読みたくなったがまた積ん読になる恐れもあるな〜。でも赤ずきんやピノキオも登場するようだ。とりあえず、書評を繙いておこう。


今週の本棚 201916

『ウンベルト・エコーの世界文明講義』ウンベルト。エコー著、和田忠彦監訳、石田聖子ほか訳(河出書房新社・4968円) 木村凌二 評

 中世以来、ヨーロッパでは「巨人の肩に乗った小人」という言い回しが好まれたという。そこに立てば巨人よりもずっと遠くを見ることができるからだ。その半面、もっとも時代の診断が下手なのはその時代を生きる者たちでもある。原書の表題『巨人の肩に乗って』も、語り手としての思想家エーコの重層する文明への史眼が感じられるだ。

 著者は大学の卒論で中世神学者の美をめぐる問題を扱った。だが、50年の歳月を経ても、美の概念の答えは変わらなかったという。美とは人間が美とよぶすへてのものである、と。美しい人間は手に入らずとも讃(たた)えられるが、望ましい人間は所有できないなら苦痛になる。美の経験とは公平無私なところがあるのだ。

 中世の怪物は霊的(スピリチュアル)な意味があり、醜いものではなかったという。17世紀以後、「赤ずきん」の狼、『ピノキオの冒険』の火食い親方、あるいは吸血鬼、幽霊たちが醜く恐ろしいものとして悪夢になった。だが、蒸気機関と機械の出現によって、『長い煙の蛇』(ディケンズ)がたち昇る街の醜さにも注目する。しかし、マセイス作の肖像画「グロテスクな女」でも恋い焦がれる男には讃美されるもの。醜いものも美と同じように相対的なものにすぎないのだ。

 そこで、「絶対と相対」という問題に突きあたる。地球の形をめぐる論議で聖アウグスティヌスは球形説に傾いていたが、その事実を知ることは魂の救済には役立たないのだから、どう いいと思ったらしい。魂の救済こそが絶対の命題であったからだ。それとは逆に、近代では、とくにニーチェ以降、「事実は存在せず、あるのはたんなる解釈だけ」という考え方が横行している。だが、人間の死と貫通できない壁があるという事実は絶対ではないか、と著者は指摘する。つまり時空の範囲は否応なく限られるのだ。

 そもそも世界はあやふやで揺れ動いているのに、なぜ人は「見えないもの」も信じるのだろうか。肉体としてのアンナ・カレニーナは存在したことがないのに、彼女は無慈悲な死を遂げたという架空の事実だけで、われわれの心を揺さぶる。古代人が神話を信じたように、近現代人にとって虚構の物語が読者の思考を占領するすらできるのだ。

 そこから、中世の修道院を舞台に捏造文書の小説『薔薇の名前』を書いた著者は、間違い、嘘、偽造をめぐる実践に行きあたる。なによりも真実ほど注意を要するものはないという。真実を上手に語るのは、真実を上手に隠すのと同じくらいの優れた能力がいるからだ。歴史のなかには正当な「偽造文書」があるという。自分たちが信じている所有権や議定書であれば、それを示唆する文書は偽物ではないと思えたのだ。

 ところで、名作映画「カサブランカ」は紋切り型の場面の寄せ集めにすぎず、監督ですら結末を予想していなかったらしい。イルザ(I・バーグマン)も一緒に旅立つのがリック(H・ボガード)なのかヴィクターなのか知るわけもない。それが二人の男のどちらを愛しているのか分からずにいるイルザのミステリアスな微笑の正体だという。だが、あらゆる原型あ押し入ってくるとき、ホメロス風の奥深さに至るのだという芸術の不完全さをめぐる作品分析には唸らされる。

 ほかにも、会員すら知りえないフリーメーソンの秘密、あるいは妄想か事実か分からない陰謀などのテーマについて縦横無尽に思考する巨匠の姿が浮かび上がる。い10年余にわたる連続講演をまとめただけに、錯綜する文明を解きほぐす連想のひらめきが心地よい読後感になった。

















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どこからか言葉が 谷川俊太郎 18年7月25日 [スズムシ日記]








ブログ再開します。身辺ごたごた。不幸も重なり、披露困憊。でも新たな年を迎えて、エンジンをかけ直そう。っと。


どこからか言葉が


朝日新聞2018年725日付『どこからか言葉が』。月一の連載詩。作者は我が谷川俊太郎。今回のお題は『トゲ。』感嘆詞のああ!が主題だ。同じ我が師の吉本隆明も自己表出といってああ!を言っていた。アフリカ時代(世界進出以前の)の人々の発する言葉以前のああ!を。子どもたちに教える、あれは花などの指示表出は枝葉だとも。ああ!の感嘆詞は幹にあたると。ああ!は子どもの専売だとおもうのだが。でも近頃の子どもは大人びて。つまらない。


それじゃあ。いきましょう。


トゲ


小鳥が囀っている


風が木の梢を揺らしている


その上の空 


ヒトが創ったものは何ひとつない


すべては自然に生まれたのだ


私の胸は無言の感嘆詞でいっぱいだ


ああ!と言わせる存在を


限りない言葉に満ちた沈黙を


ただ一つの名で呼ぶことが出来るだろうか


すべては自然に属している


ただ「神」と呼ばれるものだけが


自然に宿りながら自然ではない 


ヒトの言葉は自然に刺さったトゲ


バラのトゲが原因でリルケは死んだが


この地代の詩人はそれと気付かずに


言葉のトゲで


死ぬ


 


朝日の記者?赤田康和がトゲにコメントを挟んでいる。「バラと死 叙情豊かな空気で包む」と。


谷川さんにとって木々、小鳥など自然そのものが感嘆と愛情の対象。例えば詩集「空に小鳥がいなくなった日」の表題作は、人間が造る都市文明への批判もにじませつつ、<空に小鳥がいなくなった日/空は静かに涙ながした>とつづる。


本作でも<私>は人間より自然に共感し、小鳥のさえずりや木の梢を揺らす風に<無言の感嘆詞でいっぱい>になる。


そんな<私>を含む詩人たちが<ヒトの言葉>というトゲで死ぬという。言葉を生むことが生業の詩人が、言葉で死ぬというのは驚きだが、「手元も草稿にはもっと重たい詩がある」というから、あまり深刻にとらえなくてもよさそうだ。


詩人リルケはバラの棘による傷が原因で白血病になり死亡したとされる。「いかにも詩人らしい死に方だけどフィクションかもね」と谷川さん。美の象徴であるバラで詩人が命を落とすというモチーフが本作全体を軽快かつ叙情豊かな空気を包んでいる。



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アタリの未来予測 [スズムシ日記]

ジャック・アタリが朝日新聞に未来予測といってインタビューに応えている。朝日にはよく登場する。ご贔屓のようだ。右からは朝日がバッシングをうけているのにね。フレフレだ!めげずにがんばれってば。スズムシ爺

長文だから連載でお送りします。

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2030年、未来予想図

 

 20世紀以降、英米、米ソ、米中と2大国の関係が世界情勢を左右してきた。一方で市場のグローバル化に伴い、国家の力は弱くなってきている。保護主義が台頭し、北朝鮮の非核化が焦点となる中、日本や欧州は両大国とどうかかわるべきか。数々の予言を的中させてきたジャック・アタリさんに、2030年の未来予想図を聞いた。

 ――数々の「未来」を予測してきました。

 「06年に米国の住宅向け融資『サブプライムローン』の危険性を指摘し、翌年、実際に世界金融危機が起きたことが、よく引き合いに出されます。07年6月にiPhone(アイフォーン)が発売される前に、世界を自由に横断する『ノマド』が持つ情報発信機器として『オブジェ・ノマド』の普及を予測し、スマートフォンの大衆化を言い当てたとも言われました」

 ――最近出版された「新世界秩序」(作品社刊)では、30年の世界像を描いています。

 「世界のGDP総額は現在の2倍になり、地球上の総人口は15%増え、85億人に達します。うち70億人が携帯電話を持っているでしょう。大国はライバルを圧倒するのに手いっぱいで、自国の利益のためだけに立ち回り、市場のグローバル化が国家をのみ込みます。国境を越えた不正行為が増え、麻薬や売春などの犯罪経済が世界のGDPの15%を超えることでしょう。それは破局に直面し、無政府化とカオス化が進んだ世界です」

 ――なぜ、そんな状況に。

 「最も憂慮すべきは、最近の米国の関税攻勢に見られるような保護主義です。現政権は極端に走りがちなのが気がかりです。例えば、赤字の発生源だからと日本車の輸入自体を禁じるような……保護主義が行きすぎると、世界経済は破局へ至ります。中国は歯車が破局へと自転しないよう、賢明な対応をしていると思います。日本と欧州は、共通の危機にさらされていると指摘しておきます」

 ――どんな危機ですか。

 「米中の2大国に加え、ロシアやインドなど近未来の大国は、友好国にすら容赦しなくなります。日本と欧州は、資本や高い技術を持ちながらも、守勢に立たされがちです。企業買収や技術移転などを通じ、悪い表現ですが『生き血を吸われる』危険がある。それを防ぐには、以前よりも多様化した同盟関係を結ぶ必要があります」

 「現代の市場が『ミー・ファースト』(私が一番)の原理で動いていることに、この傾向は起因します。市場は、本来なら『お客様が一番』のはずですが、実態は逆になっている。競争や宣伝で『私が一番』を唱えるありようは、ポピュリズムの原理と通底します。地球規模で利己主義と利他主義、つまり『自分の幸せのために』と『他人の幸せのために』という価値観がせめぎ合っています」

 ――英国が欧州連合(EU)からの離脱を決めた際、「一国なら良くなる。まずは自国から」「昔はよかった」という考え方は短絡的で誤っていると批判しました。

 「ミー・ファーストにも通じる考えですが、根底には『未来を恐れる』心情があります。米国も日本も同じ傾向にあります。誰でも昔は若かったし、時間もあった。でも懐古的で内向きな心情に浸る傾向は、望ましくありません」

つづく


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あるきだす言葉たち [スズムシ日記]

『あるきだす言葉たち』は詩や短歌の新人を紹介する新聞連載もの。近頃あまりピントこなかったのだが、森水陽一郎はいいかも。と思った。76年姫路生まれ。第一詩集『九月十九日』(ふらんす堂)で小野十三郎賞を受賞している。

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昭和

常磐の森の産湯だまりが干上がったと

聞きつけた夕餉どきには、すでに

泥さぐりの熊手を手にした古老たちが

祭りじめのふんどし一丁で、黙々と

屍の匂いに集うシデムシの働きぶりで

二十人ばかり、森のすり鉢に身を沈め

ひざまで積年の、産湯に泥にうずもれて

ぬたりぬた、底へ、底へと身を惹かれ

 

赤目をぎらつかせた救急車と人だかりが

森のとば口に押し寄せ、入れろ入れろと

足止めの青年団ともみ合いになるが

「帰りを待つ!散れ!」と鉄壁となり

 

やがて一人、また一人と、夜霧を縫い

藪張りの獣道を、泥かぶりのしおれ顔で

ぬらりと抜け出てくるが、赤色の稲光を

浴びるその姿は、残らず失名の泥びとで

その胸に抱きかかえるは、人によっては

ぐずぐずに煮崩れた、匂い立つ軍服の褜

であり、あるいは錆朽ちに根を絶たれた

赤子返りの銃剣と栄え映り、それはまた

生後七十三歳の、昭和の忘れ形見

盲目の、不帰の落とし子でもあるはずで

 

スズムシ:昭和も過去になりつつある。生後七十三歳とはまさに僕の年。敗戦の8月から1か月後に生まれた。常磐でなく白河で。そこに父はなく。母一人で疎開しての産み月。乳は出ず、粥を薄めて乳の代わりをすすったとか。昭和も過去になる。十年生まれの我が師匠も亡くなった。昭和が遠くなる。


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胸の中の鈍いおもり 村上春樹 終わり [スズムシ日記]

木村判決 一筋の光明


 


 林泰男の裁判に関して、もうひとつ印象に残っているのは、担当裁判官であった木村烈氏がとても公正に、丁寧に審理を運営しておられたことだ。最初から「実行犯は死刑、運転手役は無期」というガイドラインが暗黙のうちに定められている状況で(林郁夫=受刑者・無期懲役確定=という例外はあったものの)、審理を進めていくのはいろんな困難が伴ったと思うのだが、傍聴しながら「この人になら死刑判決を出されも、仕方ないと諦められるのではないか」と感じてしまうことさえあった。


 正直に申し上げて、地裁にあっても高裁にあっても、唖然とさせられたり、鼻白んだりする光景がときとして見受けられた。弁護士にしても検事にしても裁判官にしても、「この人は世間的常識がいささか欠落しているのではないか」と驚かされるような人物を見かけることもあった。「こんな裁判にかけられて裁かれるのなら、罪なんて絶対におかせない」と妙に実感もした。しかし林泰男の裁判における木村裁判長の判断に関する限り、納得できない箇所はほとんど見受けられなかった。判決文も要を得て、静謐な人の情に溢れたものだった。


 「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であったと言える。(中略)林被告のたえに酌むべき事情を最大限に考慮しても、極刑をもって臨むほかない」


 気持ちがしっかりと伝わってくる優れた判決文だったと思う。それは希望の余地というものがほとんど存在しないこの長い裁判を通して、最後に辛うじて差し込んできた微かな光明のようなものだったかもしれない。


 


十三の死 踏まえ考える


 


 それでも死刑判決を生まれて初めて、実際に法廷で耳にして、それからの数日はうまく現実生活に戻っていくことができなかった。胸に何かひとつ、鈍いおもりが入っているような気がしたものだ。裁判長の口から死刑が宣告されたその瞬間から既に、死は法廷の中に姿を現していた。


 そして今、オウム事件関連の死刑囚、13人全員の死刑が執行されたとの報を受けて、やはり同じように胸の中のおもりの存在を感じている。表現する言葉をうまく見つけることができない重い沈黙が、僕の中にある。あの法廷に現れた死は、遂にその取り分をとっていったのだ。


 13人の集団処刑(とあえて呼びたい)が正しい決断であったのかどうか、白か黒かをここで断ずることはできそうにない。あまりに多くの人々の顔が脳裏に浮かんでくるし、あまりに多くの思いがあたりに漂っている。ただひとつ今の僕に言えるのは、今回の死刑執行によって、オウム関連の事件が終結したわけではないということだ。もしそこに「これを事件の幕引きにしよう」という何かしらの意図が働いていたとしたら、あるいはこれを好機ととらえて死刑という制度をより恒常的なものにしようという思惑があったとしたら、それは間違ったことであり、そのような戦略の存在は決して赦されるべきではない。


 オウム関連の事件に関して、我々にはそしてもちろん僕自身にもそこから学びとらなくてはならない案件がまだたくさんあるし、13人の死によってそのアクセスの扉が閉じられたわけではない。我々は彼らの死を踏まえ、その今は亡き生命の重みを感じながら、「不幸かつ不運」の意味をもう一度深く考え直してみるべきだろう。


 


おわり


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胸の中の鈍いおもり 村上春樹 2 [スズムシ日記]

遺族感情 どこまで反映


 


 ただ、遺族感情というのはなかなかむずかいい問題だ。たとえば妻と子供を殺された夫が証言台に立って、「この犯人が憎くてたまらない。一度の死刑じゃ足りない。何度でも死刑にしてほいい」と涙ながらに訴えたとする。裁判員の判断はおそらく死刑判決の方向にいくらか傾くだろう。それに反して、同じ夫が「この犯人は自分の手で絞め殺してやりたいくらい憎い。憎くてたまらない。しかし私はもうこれ以上人が死ぬのを目にしたくはない。だから死刑判決は避けてほしい」と訴えたとすれば、裁判員はおそらく死刑判決ではない方向に傾くだろう。そのように「遺族感情」で一人の人間の命が左右されるというのは、果たして公正はことだろうか? 僕としてはその部分がどうしても割り切れないでいる。みなさんはどのようにお考えになるだろう?


 


葛藤 秘められたまま


 僕は「アンダーグラウンド」を出版したあと、東京地裁と東京高裁に通って地下鉄サリン・ガス事件関連の裁判を傍聴することにした。仕事の関係で旅行に出ることも多く、もちろんすべての法廷には通えなかったが、東京にいるときは時間の許す限り傍聴した。とくに林泰男(元死刑囚)の裁判には関心があったので、そちらを主にフォローした。僕が林泰男の裁判に関心を持ったのは、彼がサリン・ガスを散布した日比谷線(中目黒行き)の車両がもっとも多くの被害者を出し、そのうち8人が命を落とされたからだ。僕がインタビューした被害者も、その車両に乗っていた人が圧倒的に多かった。彼は他の実行犯たちが、サリン・ガス溶液の入って2つのビニール袋を、尖らせた傘の先で突いたのに対し、自分が進んでビニール袋を3つに増やしてもらい、それを突いた。そのことも被害者の多さに繋がったと言われる。その林泰男というのはいったいどういう人物だろう? どのようにしてそんな重大な犯罪を犯すに至ったのだろう? 僕としてはそれを自分の目で見届けたかった。伝聞なんかではない第一次情報として知りたかった。


 結果として、林泰男はかなり複雑な感情を抱えた人間だという印象を僕は持った。今ここで「彼はこういう人間だ」とはっきり割り切ることは、とてもできそうにない。彼の裁判には何度も足を運んだが被告席に座った彼が何を考え、何を感じているか、その本当の気持ちを見極めることはむずかしかった。どちらかといえば、自分にとって大事なものは殻の中に収め、人目には晒さないという態度を静かに保っているように見えた。長い逃亡生活中に身につけたガードの強さみたいなものも、そこにはあったかもしれない。相反するいくつかの感情を、うまく統合しきれないまま、捌ききれないまま自分の中に抱え込んでいるような印象も受けた。ただ自らの行為を悔やみ、審理の進行に対して終始協力的であったとは聞いている。


 昔の友人や知人の証言を総合すると、本来は前向きで、真面目な考え方をする素直な青年であったようだ。弱い部分や、心の傷を抱えてはいたが、自ら律しようという意志もそれなりに強かった。多くの人々が彼に対して好感を抱いていたようだ。しかしそのような真摯で前向きの姿勢をうまく活用できる状況に、自分の身を置くことがむずかしかったらしい。それはこの裁判で裁かれた多くの元オウム真理教信者について、共通して言えることでもあるのだが……。そして「修行」という名の新しい文脈が、彼ら充たさざる思いを手際よく有効に、そして結局はきわめて邪悪に、すくい上げていくことになった。


 林泰男の裁判に関して、僕がよく覚えているのは、法廷にいつも必ず彼のお母さんが見えていたことだ。誰かが「あれが林の母親だよ」と教えてくれた。小柄な女性で、よく僕の前の傍聴席に座っておられた。裁判のあいだじゅう、ほとんどぴくりともせず、たぶん被告席の息子の方をじっと見ておられたのだと思う。彼女の姿が法廷に見当たらなくなったのは、判決言い渡しの当日だけだった。おそらく息子に極刑の判決が下りることを覚悟し、それを実際に耳にすることに耐えられなかったのだろう。まだお元気でおられるか、今回の死刑執行の報を耳にしてどのように感じておられるか、それを思うと胸が痛む。


 


つづく


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胸の中の鈍いおもり 村上春樹 [スズムシ日記]

オウム13人死刑執行に対して村上春樹が毎日新聞に寄稿した。(29日付)みんなも既読だと思うが、備忘禄のつもりでブログ記載しておこう。1週間も経つと、次から次へとニュースが飛び込んできて、死刑のことなど過去のことになってしまう。

それでは、まいりますぞ。長文だ。

 

死刑の持つ意味

 

726日に、76日に続いて2度目の死刑執行が一斉におこなわれ、これで死刑判決を受けた元オウム真理教信者の13人、すべてが処刑されたことになる。実にあっという間のできことだった。

一般的なことをいえば、僕は死刑制度そのものに反対の立場をとっている。(ぼくもそうだ:スズムシ)人を殺すのは重い罪だし、当然その罪は償わなくてはならない。しかし人が人を殺すのと体制=制度が人を殺すのとでは、その意味あいは根本的に異なってくるはずだ。そして死が究極の償いの形であるという考え方は、世界的な視野から見て、もはやコンセンサスでなくなりつつある。またえ冤罪事件の数の驚くべき多さは、現今の司法システムが過ちを犯す可能性を技術的にせよ原理的にせよ排除しきれないことを示している。そういう意味では死刑は、文字通り致死的な危険性を含んだ制度であると言ってもいいだろう。

しかしその一方で、「アンダーグラウンド」という本を書く過程で、丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、「私は死刑制度に反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる。「この犯人はとても赦すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい」という一部遺族の気持ちは、痛いほど伝わってくる。その事件に遭遇することによってとても多くの人々が多少の差こそあれ人生の進路を変えられてしまったのだ。有形無形、様々な意味合いにおいてもう元に戻れないと感じておられる方も少なからずおられるはずだ。

僕は自分の書いた本を読み直して泣いたりするようなことはまずないが、この「アンダーグラウンド」という本だけは、必要があって読み返すたびに、いくつかの箇所で思わず涙が溢れ出てきてしまう。そのインタビューをしていたときの空気が、そこにあった気配や物音や息づかいが、自分のなかにありありと蘇ってきて、息が詰まってしまうのだ。たとえセンチメンタルだと言われようと、僕は本を(小説を)書く人間として、そういう自然な気持ちを抑え込んでしまいたくないし、できることならそれを少しでも多く読者に伝えたいと思う。また僕自身も、この一冊の本を書くことを通して、自分の中で何かが確実に変化したとい感触を持っている。 つづく


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福岡伸一の動的平衡 2018・7・5 [スズムシ日記]

生命 かつ消えかつ結びて

 

ノーベル賞学者の大隈良典先生とお話する機会があった。オートファジー研究の先駆者。オートファジーとは細胞内の分解システムのこと。私も小なりとはいえ細胞内たんぱく質輸送を研究していたので先生とは以前から交流がある。

 先生はこんな風にご自分の研究を述懐された。研究を始めた頃は、合成の研究が花盛りで、分解の研究はほとんどかえりみる人がいなかった。合成はポジティブで建設的なもの、分解はネガティブで取るに足らないものと思われていたのです。

 ところが研究の進展によって、細胞は物質を合成する以上に、分解することを一生懸命していることがわかってきた。たんぱく質合成の方法は一通りなのに、分解には複数の経路が多重に用意されていた。そして生命現象は絶えまない合成と分解のバランスの上に立っている。このコラムのタイトルにもそんな思いが込められている。

 方丈記の冒頭ほどみごとに生命の動的平衡を言い表した文章を私は知らない。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまるためしなし」。あらためてこれを読んでみて大発見をした。なんと鴨長明は、消えることを結ぶことよりも先に書いているでは亡いか! つまり、合成よりも分解の意義の優位性をすでに言い当てていたのだ。


福岡さん

そうは言っても、泡沫(うたかた)は渦を巻いて攪拌されて、水の中の不純物が湧き出したものだ。だからやっぱり生成が最初なんだ。それからそれこそ泡沫になって消えていく。玉川の洗剤の泡はひどかったな。今は鮎さえ遡上するようになった。下水道の整備が成り立ったからだ。インドや中国の大河はひどいものだね。

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国分VSガブリエル  [スズムシ日記]

倫理は教育できるのか


 


 ――会場からの質問を受ける前に一つ質問させてください。民主主義には倫理が欠かせないということでしたが、それはどう教育できるのでしょうか。相次ぐテロなどをみていると、民主主義を含む欧米型の政治体制に反発を抱く人は少なくありません。


 ガブリエル氏:あらゆる子どもたちは生まれたときに、倫理的な問題に対するある種の感性を持って生まれてきます。子どもたちはすぐに規範というものを求めるようになります。人間というのは、規範性に対する感性を持って生まれてくる。つまり、大多数の人間は、生活において規範的な構造というものを探しながら生活するわけです。


 その時に選択肢が限定されたものにならないといけないわけです。もし私たちが子どもたちに倫理を早い段階で教育したとしたら、彼らがのちに権力や社会的地位を得た時に、何でも選択するわけではなくて、例えばいまおっしゃったような、民主主義の価値をまったく信じていないような人々が行ってしまうような論理づけ、理由づけにおける誤謬(ごびゅう)、誤りというものがだいたいなくなるわけです。


 民主主義を信じないで排外運動に傾くような人たちは、欠陥を含んだ理由付けをしてしまっています。例えば「ユダヤ人は悪いやつだ」と信じている人たちに「なぜそう考えるのか」と聞くと、そのときにかえってくる理由づけは、まさに欠陥を含んでいる薄弱な推論です。


 もちろん、倫理的な教育をしたとしても、そのうえで人々の意見が異なって合意しない、意見の食い違いは存在します。ただその時の意見の食い違いは合理的な形をとるようになるわけです。つまり、ちゃんとした理由づけをできる人たち同士の意見の違い、互いに違うようになるという状態は、それ自体が倫理的な状況と呼ぶことができます。なぜかというと、同意していない物事についての「幅」がすでに限定されていて、そこでの意見の不一致はめちゃくちゃなものではなくて、合理的なものになっている。そういうものが実現された状態こそが、私が民主主義の「倫理的な土台」と呼ぶようなものです。


多数決は平等なのか


 


 【会場からの質問】いまの民主主義は本当に平等なのか疑問です。多数決は平等なのでしょうか。結局、少数に回ってしまった意見は切り捨てられてしまいますし、代表として選ばれた人は選んだ人の利益だけを追求しており、みんなの権利を探していく民主主義の理念からは隔絶したものに感じられます。


 もう一点、なぜ民主主義は専門家に任せられないのか。例えば水、病院、通信の管理は専門家に任されています。そこには信頼の上でいろんなものが成り立っていますが、なぜ政治は成り立たないのか。自分には自分の専門があって、政治について考える時間がない。すごく短い時間で、政治家が口で言っているすごく少量のことからしか考えられない。自分自身もみんなも無知で、無知な人が代表を選んで、結局はうまくいかない。


 だったら全体を考えてくれる人に任せる選択肢があってもいいのではないか。今まで失敗しまくってきたのかもしれませんが。


 國分氏:日本では「民主主義とは多数決である」という通念が非常に強く存在しています。そんな考えはドイツであるのか、お伺いしたいです。


 あとなぜ専門家に政治を任せてはいけないのかという点に僕が応えておくと、そうやってしまうと、自分が困ったときに何もできなくなるということだと思うんです。道路を作りますが、あなたの家が邪魔ですのでどいてくださいと言われた時、何も言い返せない。確かに何の危機もないときは、政治に参加していなくても何も困らない。けれども、災難が降りかかったときにはものすごく困ります。


 ガブリエル氏:どちらの質問も面白いのですが、日本に来てからよく聞くのが「少数派をどう扱うべきか」という問題です。ドイツでは多数決ではなく、同意を形成していくことが重視されています。今日の話でいうと、「倫理的な土台」を考えるときに、多数決で圧倒的な多数を占めたからといって、その意見が重要なのではなく、「倫理的な土台」に基づいて考えたから、その決定がみんなのためになるから効力、力を持つわけです。


 例えば何か権利を行使するさいには義務がある。その義務とは反対する人を抑圧しない形で権利を実行していかなければならないということです。そうでなければ、倫理的な誤りを犯すことになるでしょう。


 もう一点ですが、専門家に任せればいいというのは、まさに中国がそういったモデルになっていますが、私はその仕組みに賛成しません。ある種の独裁です。それが監視社会と結びつく。専門家と監視社会が結びついて独裁がもたらされるというのは、わりと専門家が一致する見解ではないでしょうか。


 國分氏:一つだけ。僕は住民投票は最後の手段だと思っています。他にどうしようもない時に使われるべき手段ですね。あと、住民投票の制度は、いろいろなかたちが研究されています。単に「51%だったらOK」とはしないやり方があるということだけは言っておきます。


【会場からの質問】お二人にお聞きしたいのですが、ものすごい衝撃を受けたテーゼが二つあります。一つは「民主主義と国民国家は相いれない」。もう一つは「民主主義と主権は相いれない」という。国民国家も主権も必要としない、それに代わる新しいシステムはありうるのか。公聴会の話がでましたが、日本では往々にして政府の息がかかったものになり、あまり実質的な効果を果たしていない。ドイツではそれを防ぐ仕組みがあるのかどうか教えてください。


 國分氏:実のところ僕も、ガブリエルさんはそこまではっきり言うんだとは思いました。ただ、国民国家について少しだけ言っておくと、国民国家と国家は違うので、国民国家はなくなっていっても、国家は残るわけですよね。国家という制度は簡単にはなくならない。他方、主権なき政治、主権なき民主主義については、僕は今のところアイデアはありません。ただ言えるのは、主権という概念を金科玉条にしてはいけないということです。僕らはもう少し主権に懐疑的になるべきだと思います。


 ガブリエル氏:国民国家については連邦モデルで考えています。つまり、グローバルな政府というものを連邦モデルで考えていて、今の国家のような構造をもっていて、例えば日本でも地方自治体があり、国家があるような同じ構造をグローバルでやればいいと。だから、グローバルな政府の下にローカルな州(国家)があって、今の国民国家モデルをグローバルに拡張した連邦モデルが、一つのモデルのないのではないか。


 そしてそのとき、市民権がない、いわゆる「不法滞在労働者」と呼ばれるような人たちに対して、グローバルなパスポートを発行する必要があるでしょう。グローバルな次元でのシチズンシップが保障されて、個々のローカルな政府があり、ローカルな次元の規制も存在する、さまざまな地域差がありながらも、場所を移動できるグローバルパスポートが必要になる。何でもありのアナーキズムではなく、さまざまな規制のもとに成り立ったモデルになります。


 その場合、地域ごとのさまざまな「情報処理」が必要で、具体的にどうなるかは検討が必要ですがまず、こうしたことを考え始める必要があります。考えれば将来的にどういうものが可能か、が見えてくるでしょう。


 政治理論をやっている人たちが、本や新聞などでこうした考えを発表することで人々に広まり、現実に実行されるということが歴史上においても様々な形で起きたわけですし、こうした問題をグローバルな文脈で考えていく必要があるでしょう。


 主権なしの政治体制というのも同じで、当然ここで言えるような解決策はないわけですが、解決策に向けて一緒に考え始める必要がある。そのために、ほかの人たちと話し、対話をしながら考えていく必要があるでしょう。


 三つ目の公聴会については一つの提案があって、公聴会のメンバーの3分の2の専門家は対立している野党が選び、3分の1は与党が選ぶ形にすればいいんじゃないかと。そうすると与党側が自分たちが決定したい法律を通す際に、野党が多くのメンバーを送り込めるわけで、より超党派的な形で取引を結んでいかなければならない状況に追い込まれるわけで、それが一つの制約になるのではないでしょうか。


 


 ――ありがとうございました。民主主義、国民国家、倫理的な土台まで、盛りだくさんの話でした。ガブリエルさん、國分さん、それから完璧な通訳をしてくださった斎藤さんに大きな拍手をお願いいたします。


     


 Markus Gabriel 1980年生まれ。独ボン大教授。専門はドイツ観念論など。著書に「なぜ世界は存在しないのか」、スラヴォイ・ジジェクとの共著「神話・狂気・哄笑」など。ポストモダン思想への批判で知られ、新しい実在論という立場から議論を展開している。


 


おわり


 


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国分VSガブリエル  [スズムシ日記]

立憲主義と民主主義


 


 國分氏:次に立憲主義と民主主義の関係について話し合っていきたいと思います。まず、簡単な質問なんですが、ドイツでは「立憲主義」って言いますか?


 ガブリエル氏:言いますよ、もちろん。


 國分氏:実はこの言葉、日本では少し前まであまり使われなかった言葉なんです。法律の専門家は使っていたけれども、一般的にはほとんど耳にすることはありませんでした。どうしてこんな専門的な言葉が注目を集めるようになったのかというと、この原則が危うくなってきたからです。


 立憲主義の考え方というのはある意味では簡単で、どんな権力も制約を受けるということです。民主主義というのは民衆が権力をつくる政治体制のことであり、これと立憲主義を組み合わせたのが近代国家の基本的な枠組みであるわけですが、だとすると、立憲的民主主義の政治体制においては、「民衆が権力を作るけれども、その権力でさえも憲法によって制約を受ける」ということになるわけです。つまり、「民主主義だからといって民主的に決めれば何でもやってよいわけではない」というのがその基本的な考え方になります。


 すごく分かりやすい例を挙げると、人種差別を合法化するような法案を国会で通すことは民主主義においてあり得ます。しかし、そういう法はあらかじめ憲法によって禁止されているので、最終的にはボツになる。そうやって、あらかじめ民主主義がやっていい範囲を決めておくのが立憲主義の考え方です。ただ、立憲主義と民主主義の関係は、国とか、地域、歴史によって色々変わってくるものだと思います。ドイツでは、民衆の力としての民主主義と、それに対する憲法の制約について、どういうふうに受け止められているでしょうか? ドイツは立憲主義的な発想が非常に強いと聞いていますが、どうでしょうか?


 ガブリエル氏:まさにこの問題はドイツにとっても中心的な問題で、立憲主義も様々な論者が強調する問題です。立憲主義とは、どのような権力も制限されなければならないということです。ドイツの憲法でも立憲主義が言われており、第1条は、人間の尊厳は不可侵である、としています。これが第一命題となっていて、そのうえで2条、3条以降も書かれている。


 私の今日の話は、このドイツ憲法第1条の私なりの解釈だったわけです。戦後ドイツは人々が権力をどのように制約するかという観点から憲法をつくったわけですが、重視されたのは、倫理的な土台がなければならないということです。政治的なシステム、つまり国家は単なる形式的なシステムではなく、倫理的な基礎をもったシステムになっていなければなりません。倫理的な基礎がなければ、すぐに無制約的なシステムや権力に取って代わられてしまうと考えました。


 國分氏:いまのお話に同意です。ただ、いまおっしゃった「倫理的な基礎」についてはもう少し考えるべきことがあると思うんです。現在の首相である安倍氏は、「憲法解釈に責任をもつのは内閣法制局長官ではなく、選挙で国民の審判を受けるこの私だ」という発言をして物議を醸したことがあります。こう発言する彼が、法とは何か、憲法とは何か、立憲主義とは何かについて、何も知らないし、何も分かっていない、無知な人間であることは明らかです。しかし、そこには、それでもなお論ずべき論点があると思います。それは何かというと「民主的な権力はいったいどこまで及ぶのか? どこまで及ぶべきなのか?」という問いです。


 もちろん、ドイツの憲法第1条の理念を否定する人はいないと思います。でも、「憲法に書かれているからもう絶対に誰も手出しできない」ということは、民主主義の理念とどう折り合いをつけることができるのか。この問いは抽象的には考えられないものかもしれず、論点ごとに考えなければならないことかもしれません。ただ理論的問題としてそういう問題があることは指摘しておきたいのです。


 こう述べながら僕が思い出しているのは、アントニオ・ネグリという哲学者です。ネグリ氏はイタリアの左派の哲学者として世界的に有名な人ですが、このネグリ氏は明確に立憲主義に反対しています。彼に言わせれば、民主主義は、民衆が自分たちで自分たちのことを決める政治体制なのだから、どうして他の原理が必要なのかということになるわけです。僕はネグリ氏に同意しませんが、しかし気持ちは分かる感じもするわけです。


 立憲主義というのはある意味、エリート主義的な原理だと思います。民主主義が下からつくっていくものだとしたら、立憲主義は上から「はいダメ」と言ってくる。だから立憲主義に反対する人がいることは分からないではないのです。日本の首相だけではなく、哲学者にもそういう人がいる。「なぜ自分たちが決めちゃいけないのか」という民衆の反発をどう考えたらよいでしょうか。


 ガブリエル氏:幸運なことに、人間の尊厳についてドイツでは「それが必要ない」というふうに誰も否定しないわけです。それは極右であっても、どんな人であっても人間の尊厳の重要性については否定しない。このことからも分かるように、民主主義は制限されています。民主主義が決定できることは「全部」についてではないわけです。例えば我々は「誰かを拷問するかどうか」について、投票を行うべきではありません。この部屋で誰かを拷問するかどうかを投票して決めてはいけないわけです。そういう意味で、民主主義が投票で決められる内容は制限されています。それに対して、極左の人たちは何でも決定できるという発想になってしまいますが、それが実現すると、スターリニズム、毛沢東主義になってしまう。だから私はネグリ氏の考えには明確に反対しています。民主主義にはとにかく制限が必要で、この制限はどういったものかというと、ふつうの正しい考え(ライト・マインド)を持っている人なら決して疑問視しない。


 例えば、人間の尊厳についての問題がそうでしょう。人間の尊厳を傷つける拷問は、民主主義が絶対に決めてはならない。つまり民主主義は自分自身に、つまりは民主主義自体に反対することができません。これが、私が主張するラディカル・デモクラシーという理念になります。「民主主義は民主主義についてのものである」というのがラディカル・デモクラシーの基本的な発想です。


 ヘーゲルは「法哲学」で「法は自由意志を欲する自由意志である」と言っています。つまり自由意志を実現するものに反対するようなことを望むことはできません。民主主義には決して疑問視されてはならない内容、事項が存在していて、もしそれを望んでしまうなら、2+2=7と言ってしまうような非常に大きな誤りを犯すことになる。2+2=7なら単に数学の計算間違いですが、民主主義の場合は、非常に深刻な倫理的な誤りを犯すことになるわけです。


 國分氏:日本では数年前、「いつまでたっても憲法を変えられないから憲法の変え方を変えてしまおう」と構想した首相がいて、それが今の首相です。今のルールの下で、ゲームのルールを変えることができるのかというすごく形而上学(けいしじょうがく)的な問題なんですが、総スカンを食らったので彼はこれを引っ込めました。ところが、そういう光景を目にしても日本人はあまり驚かなかった。あれにもっと驚くべきだったということだと思います。立憲主義的な価値の共有がいかに尊重されているか、それがドイツの話からよく分かったように思います。これを日本でどう実現できるか。そうしたことを思って話を伺っていました。


 


つづく


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