2012-01-30 [スズムシ日記]
スノードーム
「あるきだす言葉たち」に登場したのは佐藤モニカさん(97年生まれ。「マジックアワー」で第22回歌壇賞を受賞している)。顔つきはうりざね顔。清楚な感じの人だ。
磨きゐるガラスの中にわれに似てわれに最もとほきひとをり
ましろなる雲あまたわき新しきスケジュール帳を買はんと思ふ
洗濯機をまはす間に冬の雲伸び縮みして流れてゆけり
前世は鳥かもしれず地下鉄にマスクの人ら目をつぶりをり
雨降ればながき手紙の書きたかり縦書便箋空より届く
魔法かけらるる一瞬を思ふなり新札のホログラムかたむけ
叱らるること減りてゆく大人ゆゑ北風に頬を打たるるもよし
銅版画の夕暮れがきてこの家の奥より聞こゆ 梟の声
咲き盛るシクラメン見ゆこの世には主役となれる人生もある
夜の卓にスノードームの雪降れり静けき部屋をさらに静めて
2012-01-29 [スズムシ日記]
救世主待望論
中島岳志(北海道大学準教授。近代政治思想史)氏の今年の3点。つまり2011年で中島がこころに留めた論3つという意味。氏は以下の3点を挙げた。
1 <フクシマ>論(開沼博)=青土社
2 日本の大転換(上)(中沢新−)=すばる6月号
3 「脱原発」の思想的課題(宮崎哲弥)=正論9月号
以下、取り上げた理由を提出しよう。橋下大阪知事なども登場する、面白い論旨が展開されている。若いっていい。そして脳みその質がおいらと全く違う。でも、本来の保守主義ってぼくには違和感がある。
今年は、東日本大震災と福島第1原発事故、それへの対応のまずさを含む民主党政権の不安定さが、シニシズム(冷笑主義)をますます社会に広めた。これが小泉ブームに似た「救世主」待望論となり、大阪市長選での橋下徹氏の当選にもつながったと思う。
原発事故では、政府や東京電力ヘの不信感が膨らんだ一方、「ベクレル」や「マイクロシーベルト」など難解な用語だけが流布して、人々は、究極の自己責任を強いられる日常を送った。そこで事故後しばらくすると、多くの人に「放射能について知るほど不安になるだけ。だから、深く追求せず考えないことにする」という、いわば「状況へののネグレクト(拒否)」が起きた印象だ。
しかし、いくら状況を拒否してみても、不安は消えるものではない。だからこそ、分かりやすい「敵」を叩くことで不安を解消する、「救世主」を求める雰囲気が広まったのではないだろうか。橋下氏の論理は一貫して「既得権益バッシング」。ちょっと得をしているとみえる人たちを徹底的に叩き、支持を集める。構造は、ユダヤ人を批判して政権を取ったナチスに類似する。
小泉ブーム後、格差批判が民主党政権を生み、「救世主」待望論は下火になったはずだ。だが、民主党は新自由主義的な政策に流れ、結局、人々の不安を解消できなかった。小泉ブーム後は民主党政権という別の選択肢があったが、今は民主も自民もダメという状況だけに、問題はますます深刻ではないか。
脱原発ブームも、対話よりバッシングが先行している。橋下氏への支持に似た構造を感じる。希望は、橋下氏の人気が必ずしも盤石ではないことだろう。有権者には、やはりどこか、健全なバランス感覚がある。
もう一つ、原発の是非を巡って保守系の論壇が分裂したことも、肯定的にとらえたい。今後そこから、単なる反左翼、現状追認や排外主義ではなく、近代や科学、合理主義を問い直すような本来の保守主義が再興することを期待している。
追伸:Suzuishi 中島が仏教徒だってことが分かった。だから本当の保守主義なんですね。
2012-01-28 [スズムシ日記]

2012-01-27 [スズムシ日記]






2012-01-26 [スズムシ日記]
幸福なギリシャ
新聞連載「終わりと始まり」はもうおなじみの池澤夏樹氏になるエッセイ。去年の12月に掲載されたものだ。経済破綻でEUから顰蹙を買っているギリシャが「幸福」なんですって。多分経済至上でない人間の生き方があるのだと思う。公務員ばっかりでストライキだなんて、橋下さんだったらいの一番にやり玉にあげて攻撃されるだろうね。金融っていうオバケが世界を牛耳ってしまったのだね。その出先機関がドイツやフランスの政府だからもうこれは大変だ。彼女や彼(大統領と首相)も必死だね。
じゃいくよ。
数年前のアメリカの金融危機はわかりやすかった。支払い能力のない人々にお金を貸し、「金融工学」でリスクを巧妙に隠して運用を続けて破綻した。あるいは巨大な投資会社が赤字を隠して営業していたのが発覚した。
それに比べると今度のEU(ヨーロッパ連合)の問題はよくわからない。誰が悪いというのではなく全体がずるずると地盤沈下して、にっちもさっちも行かなくなったように見える。
そこで「あいつのせいだ!」と言われているのがギリシャだ。前の政府が巨額の財政赤字を隠していた。公務員の数がとんでもなく多くて、いわば国民みんなが国にたかって暮らしていた。その資金はEUの豊かな国からの投資で、それを正しく運用しないで右から左へ使ってしまった。
しかも、デフォールトが目前に迫って国家が破綻しかけているというのに、国民はこの事態に反対するデモをしている。これまでのような楽な暮らしをさせろと訴えている。EUを牽引するドイツなどからは「なんという連中だ!」という声が上がる。
ドイツのいらだちは、そこのところだけを取り上げればわからないでもない。自分たちは国家として優秀だと自負しているし、これまでもEUの南の国々が何かと足を引っ張るのを嘆いていた。南とはスペインであり、イタリア南部であり、ギリシャだ(その後、さらに東欧諸国が加わったが)。
いつかドイツ国内で大きな事故が連続して起こった時、「我々はスペイン化している」と言ってスペインから抗議された。同じような視線が今はギリシャに向かっているのだろう。
一九八一年にギリシャがEUの前身であるEC(ヨーロッパ共同体)に入った時、ぼくは大丈夫かなと思った。彼らフランスや西ドイツなどの先進国に伍してやっていけるだろうか?
ぼくは一九七五年から三年近くギリシャで暮らした。その時のギリシャは幸福な国だった。前の年に軍事政権が倒れて民主主義国家に戻り、経済の見通しも明るく、みんながうきうきしている。農産物の昧はよく、物価は安かった。アテネの中心部で居間+2寝室+キッチンのアパートメントが月に三千ドラクマ(三万円)で借りられた。
(この時の幸福感には若かったぼく自身の幸福感が重なっていたかもしれない。日本を出られたことや初めての娘が生まれたことがあの国の印象をいよいよよくしたのだろう。)
ギリシャ人は個人主義者である。国家を借用していないし、国家に依って何かを成し遂げることが得意でない。第二次世界大戦が始まって、まずムッソリーニのイタリア軍がギリシャに攻め込んだ。これはなんとか撃退することができたが、その後できたナチス・ドイツの整然たる進撃にはすぐに負けた。ギリシャは占領された。
本当の戦いはその後で始まったのだ。地域ごとに駐屯するドイツ軍にしつこくゲリラ戦を仕掛ける。国単位では非力だったのに、村単位となると勇猛果敢に戦う。山にこもって速やかに攻撃して速やかに引く。報復に村人がたくさん殺されてもひるまない。
そういう性格であることは暮らしていてもよくわかった。
友人としては最高。一緒に遊んであんなに楽しい人々はいない。彼らにとって友情は絶対だからどんな無理も聞いてもらえる。もしも何かの罪に問われて追われる身となったら、ぼくはなんとしてもギリシャヘ逃げる。友人に会って苦境を訴えれば世界を敵に回してでもかくまってくれる。
その一方、ビジネスの相手としてのギリシャ人はまこと始末に負えない。仮に日本の商社がギリシャのものを輸入して売ろうとしても、期日を守らない、サンプルを送ってよこさない。お金に関してもいい加減で、ぜんたいとして本気でやっているとは思えないと嘆くことになる。
生きる原理が違うのだ。ギリシャがECに入ると聞いた時の危倶はそこに由来する。国家とか世界経済とか金融とか、そういう大きな言葉がなじまない。およそグローバルでない人々。EC加盟の直後に聞いた愚痴は「おいしいトマトがみんな北に行ってしまう」というものだった。
考えてみれば拡大されたEU加盟国の多くは貧しい側の国、お荷物になる国である。世界ぜんたいも大半は貧しい国である。財政という物差しを当てればそうなってしまう。それを承知で融資を続けたEUの北の国々にはそれなりの責任がありはしないか。
何年か前、クレタの山の中の村で、たまたま道を聞いた家に招き入れられ、午後いっぱいその家の主が作ったワインを飲んで過ごしたことがある。EUのせいで首都アテネの人心は荒れたが田舎はまだ昔のままだと思った。
昨日届いた便りでは、ギリシャの人々はもう外食もしなくなったという。
2012-01-24 [スズムシ日記]
おのれのヘドロ
谷川俊太郎「12月の詩」。みんなもっているヘドロ。この間、地質学の先生が海岸近くの沼にパイプを打ち込み、引き抜くと3000年単位で沼に溜まったヘドロを分析して、過去に大津波が押し寄せた痕跡が分かるのだといって、実際にそれを証明して見せていた。確かに普通だとヘドロの痕跡は落ち葉などの腐敗物なのに、津波の場合は明らかに砂なのだ。だからヘドロでも場合によっては貴重なものだということが分かる。谷川さんのヘドロは精神の奥底の無意識層に降り積もったものだ。これはユングなどの心理学へと通底している。
こころの浅瀬で
もがいてもしようがない
こころの深みに潜らなければ
おのれのヘドロは見えてこない
偽善
迎合
無知
貪欲
自分は違うと思っていても
気づかぬうちに堆積している
捨てたつもりで溜まるもの
いつまでたっても減らぬもの
2012-01-23 [スズムシ日記]
『「ぐずぐず」の理由』 鷲田清一著(角川選書・1680円)
毎日新聞「今週の本棚」評者は山崎正和氏。 山崎氏の評論は何度か読んだことがあるが、いつも途中で投げ出している。何故か、僕の中に文章がストンと落ちてこないのだ。でも、今回は鷲田さんの本についての書評だから、鷲田さんがどんなことを描いてるのか興味があるので、ここに提出しておこうと思う。
まず驚かされるのは、この著者の底知れない語彙の豊かさである。本の主題は日本語のオノマトペの分析だが、引用される擬音語や擬情語や擬態語の数は優に数百に届くし、それを翻訳し解説する形容詞や形容動詞、いわゆる実詞の語彙はその数倍に及んでいる。このめざましい言語力を武器に、著者はオノマトペの魅力を縦横に語り尽くし、それを通じて言語と文明の本質に深く斬りこむのである。
通常の実詞が外の対象を指し示すのにたいして、とくに擬態語や擬情語に代表されるオノマトペは語り手の身体の近くにあって、いわば世界の感触を直接に表現する。本の表題に引かれた「ぐずぐず」をはじめ、「どろどろ」や「ぼろぼろ」など、音は表現対象と強い関連を感じさせながら、一対一の厳密な対応を示さない。必ず意味に幅と含みが生じるのだが、これは感覚そのものが固有の抽象能力によって造語しているからである。
理性だけではなく、感覚そのものにも抽象能力があるというのが著者の創見であって、この着想が全編を通じて展開される。擬態語は抽象の産物だから、言語一般と同様に表現対象から一定の距離を保っている。その点、みずからの内部で響きを立てる感動詞とも異なり、みずからを陶酔へと誘う歌謡とも違っている。にもかかわらずそれは「人間的自然」から直接に芽生え、その結果、理性の言語、記号と対象の恣意的な結合と見なされる言語とは一線を画するのである。
著者は人間の生理的な発音がそれ自体で意味を志向し、その組み合わせが一定の気分を表現する事実に注目する。ザ行の音には強い摩擦を暗示する傾向があって、「ざらざら」「じりじり」「もぞもぞ」などと、身体が外界と擦れ内部で軋み、抵抗や躊躇を示す状態を表すことが多い。「ぐずぐず」もその一であり、人が決断を躊躇し、自己の行動への志向と摩擦を起こしている状態だといえるだろう。
オノマトペは「音の絵」とも呼ばれ、対象を描写する機能が認められているのだが、これも著者によれば感覚による抽象の一つの姿にほかならない。本来、対象を描くとは身体の営みであって、輪郭を描いて形を把握するのは、理性以前の運動感覚の仕事だからである。身体は内部で統一されているから、その運動はすべての感覚に侵食し共感される。目で眺め、舐めるように手で形をなぞるとき、身体の内の反響として、おのずから生じる発生運動がそのままオノマトペになる。
反面、オノマトペと実詞のあいだには相互移行の関係もあって、「せかせか」と急ぐ、「さばさば」と捌く、「くよくよ」と悔ゆなどと、類縁を想像させる例も多い。現に意味と音には今も密接な関係が意識されていて、意味の脈絡がテクストと呼ばれるのにたいして、音の脈絡はテクスチュア(肌理)と名づけられて文学者に重視されている。
著者は言語の発生論には慎重であって、すべての実詞がオノマトペから生まれたと断定はしない。だが少なくとも実詞が対象の様態とは無関係に、ただ意味の違いを恣意的に示す記号にすぎない、という主知的な言語論には懐疑的である。かねてみずから身体の哲学的な意味を重視する評者も、この懐疑論に強い共感を覚える者だが、これ以上踏み込んで、著者の結論を忖度するのは避けるベきだろう。
なにぶん著者は、現代人がとかく結論の断定を急ぐ弊風を戒め、思索のうえでも「ぐずぐず」することを奨めているからである。
2012-01-22 [スズムシ日記]
学校と私
表題は新聞連載。斉藤環さん(1961年岩手県生まれ。爽風会佐々木病院診療部長)の「少し引いたぐらいがちょうどいい」の記事が目に留まったので、紹介しよう。常日ごろから僕が言い募っていること、つまりあまり目くじらをたてないほうがいい、ゆっくりいこうってのとフレーズがちかいように思える。
医師を目指したのは教師だった親の勧め。病弱だったせいか医療へのあこがれもありましたが、受験向きの数学は好きになれない。そこで選んだのが2次試験に数学のない筑波大。医学専門群に1980年入学しました。
ところが入ってみると、国家試験対策ばかりで息苦しくて、独りドストエフスキーやラカンを耽読。周囲から疎外された気分に陥り、精神分析に興味を持ちました。そんな時期の私に声をかけてくれたのが、大学院で精神科を教える故稲村博先生。私は精神病理学を選びましたが、ネズミの脳内物質を調べている先輩もいる自由な研究室。やっと見つけた居場所でした。
精神科医としての姿勢を学んだのもこの部屋。現場重視の先生は不登校の治療や自殺問題に取り組み、患者が全国から集まっていた。誰も引き受けない問題に向き合う大切さを学びました。一方で、家庭内暴力を振るう子供を治療のため入院させたのに、入院そのものがその子のPTSD(心的外傷後ストレス障害)になり悩んでいる門下生もいました。
医者は常にどうすれば治せるかを問われるはずなのに、心の病気はメカニズムがなかなかわからない。明確は診断の指標がないものもあり、信念だけでも治せない。良かれと思ったことが、心の傷を深めることさえある。
だからこそ、ひとりひとりの患者に即した臨床が大事だと考えるようになりました。精神科医は善意だけでは務まらない。突っ張りすぎず、少し引いたぐらいがちょうどいい。
疎外感を味わった時期が私にもありましたが、何とか声をかけられ、居場所どころか招来の仕事さえ見つかった。ライフワークの「ひきこもり」の人たちも高齢化が進んでいます。おせっかいかもしれませんが、ひとりひとりにじっくりかかわっていきたいです。
2012-01-21 [スズムシ日記]
「切る」を知る大切
養老孟司さんのシリーズ『さかさま人間学』が毎日新聞で連載を始めている。全部を網羅できないが、折りに触れ僕の心にひっかかったものを掲載して行こうと思う。その最初の1歩は「切る」。
年をとることは、自分ではわかりませんね。子どもだって、それなりに年をとっていきます。子どもが年をとることを、育つというのです。
でも、育つと年をとることはちがうでしょうか。ちがうんですが、でも同じです。どういうことかというと、育つことがそのまま続いていくと、年をとることになるからです。そういうふうに考えたほうが自然です。自然は連続しているのです。
20歳までは育って、60歳から先は年をとる。その間はなにも起こらない。そういうことではないことは、だれだってわかる。つまり一生はずっとなだらかに続いて動いていくわけです。
ただ人はものを見るときに、部分ごとに「切って」見るくせがあります。言葉は「切る」作業なのです。ずっと一続きのはずの一生を「切る」と、若者になったり、中年になったり、老人になったりします。でも実際にはどこからが老人かと考えると、わからなくなります。
それは手でも足でも、同じことです。どこからが手で、どこからが足でしょうか。解剖をやるとそれがよくわかってきます。
手だって足だって、胴体と結局はつながっているからです。それをどこかで「切る」から、「手」と呼んだり「足」と呼んだりするのです。
自然のものは、そもそも切れ目なくつながっています。それを便利だから、言葉という道具で切っているのです。だから「切ってはいけない」というつもりはありません。そうではなくて、自分が「切ってますよ」ということを知っていること、気がついていること、それが大切なのです。本当はそれこそが「知る」ということつまり「学ぶ」ことの意味なのです。2012-01-20 [スズムシ日記]
君が代処分取り消し訴訟
最高裁判所第1小法廷(金築誠志裁判長)が処分は重きに失する(重過ぎる)との採決を下した。その中でも、反対意見を述べた宮川光治裁判官の意見を注目したい。世の中マッサラに同一ってわけじゃないことを宮川さんが教えてくれている。大事な少数意見(25%)だ。これが民主主義ってもんだぞ!反対意見を記憶にとどめておくべきだろう。

教員には教育の自由が保障されている。公権力によって特別の意見のみを教えることを強制されることがあってはならず、ある程度の自由な裁量が認められる。教員だからこそ、一般行政に携わる者と異なり、自由が保障されなければならない面がある。教員は式典で教育の一環として国旗掲揚、国歌斉唱がされる場合、妨害することは許されない。しかし、生徒に直接教える場を離れた場面では、自らの思想・良心の核心に反する行為を求められることはない。
不起立行為は信念に起因するもので、いわゆる非行・違反行為とは次元を異にする。他の職務命令違反と比較しても違法性は顕著に希薄だ。原告らの歴史観は独自なものではなく、一定の広がり・共感がある。学説などでは起立・斉唱を職務命令で強制することは憲法19条に違反するという見解が大多数だ。
戒告であっても、退職金や年金への影響もありうる。体罰やセクハラなどに対する東京都の処分実績をみると、懲戒処分を受けたのは4分の1に満たない。不起立行為の全国的な状況をみても、懲戒処分は少ない。
不起立行為には口頭、文書による注意や訓告が適切で、戒告であっても懲戒処分は重きに過ぎる。2012-01-20 [スズムシ日記]




2012-01-19 [スズムシ日記]




2012-01-18 [スズムシ日記]
ガリラヤのイェシュー

池澤夏樹さんの書評を読んで、『ガリラヤのイェシュー』を絶対読むぞと思い立って、かれこれ1ヶ月。本日読了しました。エキサイトな聖書の翻訳です。気仙語でイェシュー(イエス)の言葉が書かれています。気仙語はこの度の大震災で大きな被害のあった気仙沼や越前高田あたりの方言です。翻訳を手がけた山浦玄嗣氏の母語だそうです。その気仙語は2000年まえのパレスチナの片田舎であったガリラヤに生まれた大工のイェシューが語るに相応しい方言のように思えます。とっても臨場感があるのです。何か2000年前の出来事が眼前にイリュージョン(幻想)として僕に迫ってきました。まるで劇のようにです。
夏樹さん有り難うって思いました。読み終えて、すがすがしい気分にさえなったのですから……。
『ルカ伝159 誰が一番偉いか?』の一部を紹介しましょう。
……恵狄(えびす)どもの王等は(みガどアどア)その国民を(くにだみィ)をギューギューど押さア付けで ふんぞり返(ゲア)っているし、思うままに力を(ちからア)振う大者等(おおものアどア)はお情げ深(ぶ)けア旦那さまだなんんど敬白を(けいはグア)語たらィで(お世辞を言われて)いい気になってのぼせてる。んだども、お前達は(おめアだぢア) そんたな(そんなみっともない)様(ざま)でアだめだ。一番棟梁たる者は(ものア)人に扱ぎ使われる若(わゲ)ア衆のようになり、人を導ぐ頭(かしらア)は人さまのお世話アをする下人のようになれ。……
どうだろう?如何ですか?大震災を待って機を見て発売されたのではないだろうかと思うほどのタイムリーな発刊だ と ぼくは思う。
2012-01-18 [スズムシ日記]
『ドストエフスキー』(講談社・3780円)

毎日出版文化賞「文学・芸術部門」受賞者の山城むつみさん(東海大学教授51歳)のインタビュー記事【重里徹也記者構成】。粘り強いひとだということが人目で分かる。堆く積ん読状態になるかも知れないが、読んでみようかな。 重里記者の記事を繙こう。
世界文学の最高峰といれるロシアの文豪の魅は一体、どこにあるの。この問いに真正面か向き合った大部な一冊。作品を原文で細部まで読み込み、粘り強く考を深めていく軌跡がスリングだ。「締め切りを守らず、わがままに書いてきまし。よく文芸誌に掲載さ続けたと思います。本になったこと自体が奇跡のようなもので、苦労に耐えてくれた編集者たちのおかげです」
大阪外語大ロシア語学科在学中に、ドストエフスキーに夢中になった。「驚きました。入間に関することが、そこにはすべて書かれていたのです」。卒論では長編『未成年』を扱った。商社などに勤めながら執筆を続け、文芸評論家としてデビューしたが、この文豪については「とてつもなく大きい。つらくなる」と避けていた。
取り阻み始めたのは2004年のこと。バフチン(ロシアの文芸学者)のラズノグラーシエ(異和)という概念をキーワードにした。自分は不器用だと公言している人間も、他人から「あなたは不器用だ」と言われると腹をたてる。同じ言葉でも、自分が言うのと他人が言うのとでは決定的なズレができてしまう。実はドストエフスキーの登場人物たちは、絶えずこの異和に翻弄され、それが物語を動かしているというのだ。
このズレのために彼の小説には、善をなそうとして悪をなしてしまう人物がいっぱい出てくる。「悪魔というのは天使になりそこねた者なのです。でも、だからこそ、彼の小説の悪魔的な人物たちがあんなに魅力的なのだと思います」
しかし、全編を読むと、山城評論の真骨頂は異和そのものにあるのではないように思える。この違和の向こうにほのかに見えるもの。愛、同志、兄弟愛、善意といった言葉で示される肯定的な感情を求める思いこそが、この一冊を貫いているのではないか。「作家は明らかにそういうものを志向しています。でも、そこには届かない。必ずズレる。ズレないのなら彼は宗教家になったでしょう。ズレるから小説ができるのです」
瞬間的に垣間見える光。その一瞬に懸けることは、作家が一時、夢中になった賭博に似ているという。「キリストが存在するとは、ルーレットでゼロが10回続けて出るようなもの。でも、懸け続ける。この渇望がドストエフスキーの姿なのだと思います」
2012-01-17 [スズムシ日記]
首輪をはずすとき
毎日新聞文化欄(11月7日夕刊)作家の丸山健二さん(67)が登場している。東日本大震災を巡るエッセー集『首輪をはずすとき』(駿河台出版社、、1000円)が発刊された。発刊に際してのインタビュー記事だ。【棚部秀行氏構成】
人間の存在意義を徹底的に突き詰める作家は、今回の災害をどのように受け止めているのか。これからの日本人、日本という国のあり方を問う、厳しい言葉が並んでいる。
「戦後六十数年、悲劇らしい悲劇は今回が初めてかもしれません。驚異的な生命力が出てくるかもしれないが、思想的には、怒りの矛先が権威や権力に向いていなかったり、怒りそのものがないように感じる。それが日本人の泣き寝入りや我慢とて引き継がれていくのは残念です」
私たちは事大主義に陥り、精神的、思想的に自立できていない。そのことが今回の震災で露呈したと強調する。
<日本人に最も顕著に欠落しているのは、自立の精神です><日本人は悲しむことは知っていますが、しかし、どういうわけか、怒ることを知りません>。本書のタイトルには、「自分で首輪をはずして自立せよ」という檄が込められている。
第1部は4月に東京都内で行った講演を収録、第2部は6月、宮城県石巻市と女川町を訪れ、同行者を相手に“実況中継”をした語り下ろし。速射砲のごとく繰り出される言葉は重い。「腹をくくって精読してほしい。普段、人がごまかして生きている部分をほじくって書いてあります」
高校時代を仙台で過ごした。現在は故郷の長野県で執筆活動を続ける。津波被害や原発事故への言及が、そのまま文学の言葉へ通じるのはこの作家ならではだ。「この世は人間のために作られてはいない。人類はものすごく危うい世界を生き、繁栄していること自体が奇跡です。その認識の下に私は小説を書いている。大きな視野で小説を構築すればすぐ気付くことなんです。日本の文学は目先の情緒にすがって理屈を嫌う。だから普遍性が生まれません」
4月に始めたツイッターでは、社会性の強い言葉をつぶやき、フォロワーは1万2000を超えた。「つぶやきは空中に消えていく言葉ですが、リアルタイムで発表できる。メッセージ性のある言葉を発していくことは、作家の義務だと思う」。ツイッターとブログを再構成した単行本『怒れ、ニッポン!』(真人望、1365円)も間もなく刊行される。






